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第1回「パパ・タラフマラ黎明期」ゲスト:白石章治(現NHK報道局チーフプロデューサー/在籍期間:1982年~1985年)聞き手:山内祥子(パパ・タラフマラ制作/在籍期間:2008年~)

11.12/01

どういう演劇なのか、体感的に理解できても説明する言葉が…。

山内:白石さんが制作の仕事を始められたのはどんなきっかけからですか?

白石:小池さんが「お客さんが入らないのは制作が弱いからだ」って言い出したから。今も同じような事を言ってると思うけど(笑)。

山内:(笑)。それで白石さんが立候補したんですか?

白石:どうだったかな?よく覚えてない。

山内:制作としてはお客さんを集めたり、自分たちの活動をもっとたくさんの人に知ってもらうことを考えたと思うんですが、パパ・タラフマラにおいてはそれってもの凄く難しいことですよね?まず、どういう事を目標に定めて進めていかれてたんですか?

白石:いや、そんなもうあの、とにかく大学の先輩のツテとか、小池さんの知り合いとか、そんな感じですよ。あと、当時は「ぴあ」とか「シティーロード*3」とか、そういう情報誌に載せてもらうっていうのが、常套手段だと考えられてたから、そういうところにアポが取れれば小池さんが出向いて行って話してた。メジャーじゃないメディアは、僕らが話しに行ってたけど、当時はまだビデオも普及してなかったし、伝えるのは難しかったね。

山内:そうですよね!

白石:資料も、小池さんの難解な文章が載ってたり。


『カラーズ・ダンス』/84年

山内:当時(『カラーズ・ダンス』/84年)の写真がここにあるんですけど。

白石:これは、バウスシアター*4だね。

山内:バウスシアターっていうのが、今では信じられない(笑)。

白石:なんで?バウスシアターって今どうなの?

山内:もう普通に映画館…。

白石:そうか。当時は演劇公演でも貸してもらえたんだよね。美術も大掛かりだったな。演技面は今ほど精緻なものではなかったけど、当時から仕掛けは独創的だったね。

山内:そんなにアグレッシブな事ばかりやってたら、劇場さんも貸すのを渋ったりしたんじゃないですか?

白石:いや、もう亡くなってしまったけど、バウスシアターの社長が小池さんの才能に惚れ込んで貸してくれてたんだよね。そういうのも実質的には劇場側の援助のひとつですよね。

山内:当時は今よりも「劇場」と「カンパニー」の距離が近かったということでしょうか?

白石:どうかな。まあ、小池さんって一部の人には凄く愛されてたからね。彼を引き立てたいっていう人は当時から結構いたよね。

山内:(あらためて写真を見ながら)まったく古さを感じないですね。

白石:小池さんは、最初から20世紀の演劇史に残ろうと思ってやってるからね。自分ではロシアとかヨーロッパとかそういう系譜の中にいると思ってるから、時代に全く迎合しないよね。なんていうのかな…小池さんは、初めから興行的な作品じゃなくて、芸術作品を作ろうと思ってるから、そこがやっぱり、制作として他人
に上手く説明できなかったですよね。小池さんの言葉をそのままオウム返しにはできても、じゃあそれはどういう演劇なのか、何を表現してるのかっていうのは、体感的には理解できても、それを誰かに伝えるのは難しかった。結局観てもらうしかないんだけど、その“観てもらう”ところまで行くのが、パパ・タラフマラの場合、本当に難しかったんじゃないかなと思う。

山内:凄くよく分かります。それでもこの辺りからチラシにいろいろな方からのお勧めコメントが載るようになってきてますね。カンパニーとして手応えを感じるようになったのもこの頃からですか?

白石:いやそれはもう相当、後になってからじゃないかな。

山内:白石さんがいらっしゃった時期ではまだ?

白石:確かに一部の人には凄く評価されていたけど、例えば「夢の遊眠社」みたいに言葉遊びとか、ちょっとした流行とかを取り入れたものが圧倒的にお客さんを集めていた。小池さんの場合は、もう全く相手の考えを…なんて言えばいいのかな、解釈を拒否するっていうか、解釈を裏切るっていうか、そういう演出形式じゃ
ないですか?だから、そういうものを全く見慣れていなかった当時の日本人には、それを受容する力はなかったと思うんですよ。やっぱり小池さんって、基本的に「演劇」っていうより、「舞台」の人じゃないですか?だから例えば寺山(修司)さんとか、唐(十郎)さんのように「文学」が傍らにあって理解を助けるっていうようなものもない中で、「舞台の表現だけが全て」みたいなものっていうのは、バブルに向かって進んでいくような時代には受容されにくかったよね。彼自身もそういうものに対していっさい迎合しないし、そりゃ多少は企業から援助を受ける部分はあったかもしれないけど、いわゆる流行的なものに対しては全く背を向けるからね。

山内:そうですね。今まで見たことがあるものを再び作っても意味がないから、全く新しいものを生み出したり、それまでの枠組みやカテゴライズを広げたり壊したりすることを、存在意義としてやっているようなところがあると思います。

白石:まあ、70年代まではそういう空気も結構あったんだけどね。

山内:ああ、小池さんもよくそういう話をしますね。70年代は、混沌としてるけど、いろんなものを受け入れる「もっと色々混ざり合っていた時代」だったって。

白石:やっぱり、60年代から70年代は、欧米の進んだものに対して、背伸びして実験的な独自のもので勝負しよう、みたいな機運があったからね。舞踏とかもそうだと思うんだけど、結局はパパ・タラフマラもその後、海外に軸足を移して行ったのは、やっぱりなかなか日本のメディアや観客には、自分の思ったことが十分に伝わらないっていうジレンマがあったんじゃないかなあ。まあ、解らないよ、普通の人は。一時期は言葉さえも拒んだ時代もあったぐらいだし。

山内:この当時、言葉は?

白石:あったけど、意味のないものが多かったですよね。ストーリーも一応あるんだけど、最後にはグシャグシャにしちゃうしね。とにかく小池さんは、「娯楽」ではなくて、あくまでも「芸術」を求めていた。それってもうなんか、お金をいただいて見せるっていうよりも、「どうだ、見せてやる!」ぐらいの感じでしょ?そんな風に先鋭的なものには、お客さんもですが、メンバーでも誰もがついていけるわけじゃない。

山内:そうですね、それでもファウンダーで参加した小川さんは、劇団員として今も一緒に活動してます。

白石:やっぱり小川さんがいたっていうのは大きいと思うよ。

山内:それは舞台上だけじゃなく、劇団運営の上でもですか?

白石:そうそう。制作的にも彼女が圧倒的にチケットを売ってたし。

山内:はー!そうなんですね!モデルのようなお仕事をされていた時期もあったんですよね。

白石:大学のマドンナだったもん。それにあの人ってさ、女性に凄くモテたんだよね。

山内:女友達がいっぱいいて?

白石:そう、それでみんなで小川さんを支えるみたいな。

山内:へー!当時はチケットノルマがあったりしたんですか?

白石:あったかな?でもそんなに売れてなかったね。小川さんは人の3倍くらい売ってたけど。広告も彼女がとってきてた。


タラフマラ劇場第8作
『マリー 青の中で』(1985年)チラシ

山内:えー!そうなんですか?当時はチラシやパンフレットに広告をとってくるっていうのは貴重な収入源でしたよね?それも小川さんが?

白石:どこに行っても彼女のファンだっていう人は多かったからね。当時からスター性があったよね。

山内:そう言えば、一橋大学の入学式で、金色のジーパンだったかジャケットだったかを着ている小川さんを見た時に「これはいい!」って思ったって、小池さんが話してました。それで「劇団一緒にやらない」って誘ったって。

白石:それは初めて聞いたな。

山内:あ、そうでしたか (笑) 。

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