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第4回「“つくば市芸術監督”小池博史との仕事」 ゲスト:今尾博之 (現「いわき芸術文化交流館アリオス」プロデューサー/在籍期間:1988年~1996年) 聞き手:山内祥子(パパ・タラフマラ制作/在籍期間:2008年~)

12.03/05

「パパ・タラフマラ」30年の軌跡を制作者視点で紐解くインタビュー・シリーズ「パパ・タラフマラの作り方」第4回。97年、主宰の小池博史は、「芸術監督」として茨城県つくば市に赴く。当時、まだその名称も職責も一般的ではなかった任務に就いた彼は、パートナーとしてかつてカンパニーで制作を担当していた今尾博之さんを呼び寄せた。アーティストと町とを繋ぐ制作者の仕事とは、果たしてどんなものだったのか?

ある日、突然歯が欠けた…「ああ、これはもうだめだ」って(笑)

山内:今尾さんがタラフマラに入団されたのは1988年ですね。

今尾:当時まだタラフマラは一橋大学のサークルに籍があって、今は取り壊されてしまったんですけど、学内に掘っ建て小屋みたいなサークル棟があって、そこに部室があったんですよ。確か元々ヨット部の部室だったんだけど小池さんがヨット部から劇団にするっていう感じで、なんとな~くそのスペースを占有し始めて(笑)。僕が入った時にはすでに屋根裏を改造していて、入口の間口は狭いけど屋根裏には隣の部室にも続く倍以上のスペースが存在していた。その昔は全共闘世代の人たちがゲバ棒とかを仕舞い込んでいたスペースだったとか聞いたこともあります。そこにオブジェをいっぱい詰め込んでた。

山内:ゲバ棒が、オブジェに(笑)。入団した経緯はどんなものだったんですか?

今尾:大学内に二つ劇団があって、一つは今もあると思うけど「劇団己疑人(コギト)」っていう学生劇団で、もう一つがタラフマラ。それでどっちに入ろっかな、みたいな。

山内:なぜタラフマラを選んだんですか?

今尾:あの、僕は浪人の時に、名古屋で予備校に通ってたんですけど、その頃って第三舞台とか、夢の遊眠社とかが初の名古屋公演として続々来名していた時代で。結構演劇いいなぁと思ってた。それで、大学に入ったら演劇をやろうと何となく決めていた。己疑人じゃなくてタラフマラを選んだのは、単にそっちの門を先に叩いちゃって、吉井(省也)さんにつかまって、そのままズルズルと…。

山内:つかまって(笑)。第三舞台や夢の遊眠社を観ていたのにタラフマラを選んだんですね?

今尾:そうそう、でも、利賀フェスとかロバート・ウィルソン、ピナ・バウシュとかの話を次々と聞かされて、とにかく小池さんや先輩がいいという舞台をつぎつぎと観にいって、だんだんそっちの方に傾倒して行きましたけど。

山内:当初はパフォーマーとして参加されたんですか?

今尾:当時はパフォーマーも、美術や制作などいろいろ兼任してて、一応制作に割り振られました。でも制作といいつつもチラシの配布などをしながら、先輩と一緒に大道具作ったりとか、いろいろなことやってました。その流れで、結局大学の授業にもあんまり出なくなって…。


『ブッシュ・オブ・ゴースツ』(1992年)
Katsuji Sato

山内:ああ、よくあるケースですね(笑)。で、それからしばらくは制作兼パフォーマーとして活動されていた。『パレード』(1989年初演)や『ブッシュ・オブ・ゴースツ』(1992年初演)にも出演されてます。

今尾:『パレード』は結構再演してますね。制作に専念するとなった後も、再演の度に「はーい、稽古しまーす」みたいな感じで、鈍った体をものすごい勢いで叩き直された(笑)。『ブッシュ~』は出演とは記録されてないと思いますが、小屋入りしてから急遽でるはめになったからなんです。大きなオブジェが舞台の後ろを一瞬だけ横切るっていう場面があるんだけど。

山内:はい、ありますね。

今尾:本当は袖から引っ張って移動させる予定だったのに、劇場で仕込んでみたらどうしても動かない。これは誰かが押して動かすしかないってことになって。舞台袖についてた僕がそれをやることになった。「衣装はどうする?」って話になったんだけど、「全裸で出ろ」とか言われて、全裸で出る羽目に…。

山内:(笑)

今尾:再演の時は違う人がその役をやったんだけど、それも全裸だった(笑)。

山内:そこも“イキ”に(笑)。制作業務にシフトしていったっていうのは、93年ぐらいの時ですか?

今尾:92年にはもう再演以外は出演しなくなってました。その後、94年にようやく大学を卒業できることになったあたりで、小池さんに「続けないか?」みたいな話をされて説得されたのは覚えてますね。その後2年ぐらいで辞めちゃうんですけど。

山内:それはなぜですか?

今尾:まぁ、経済的な理由と「30歳のクライシス」みたいな感じで行き詰って。『城~マクベス』(1995年)の時だったかな、仕事中に突然「ガリッ」と何か噛んだ感触があって「何だろう?」と思ったら、歯が欠けてた。

山内:歯が!?

今尾:そう、カルシウム不足だったのかな(笑)。でもとにかくすごくショックを受けて。体がもう限界だってシグナルをだしているように感じてしまったんです。「ああ、これはもうだめだ」って気づいてしまった。それでもう本当に舞台業界からは足洗おうって思ったんですよ。足洗うって言うと変だけど、演劇で食っていくのはもう諦めようっていうのかな。

山内:戻って来たのはつくば市の話があったからですか?

今尾:そう。辞めた後はとりあえず予備校の営業みたいなことをやってました。そこにある日小池さんから電話がかかってきて「つくば市で“芸術監督”とかっていう名前で仕事することになったんだけど、財団に舞台芸術のことを分かっている人が誰もいないから、お前やってくれないか?」って言われて。「きちんとした給料もらって演劇に関われるんだったら行きますよ」と。それで離職して、つくばの財団*1に入りました。

劇場が一つ出来たからってそんなに勢いよく変わらない。だが、着実に変わっていく。

山内:その頃の資料があるんですけど。第1回シンポジウムのパネリストとして、衛紀生*2さんとか、佐藤信*3さんとか錚々たる面々が参加されてます。

今尾:市議会議員の野口さんという方が頑張ってくれてたんです。元々ライブスペースを運営されていて、芸術関係にものすごく顔の利く方で。小池さんは同じ茨城県内の日立市出身ということもあって、つくばで新しいホールを作ることになった時に名前が挙がったんだと思います。で、「芸術監督」っていう名称にしようって。まあ、そこまでは良かったんですけど、当時はまだ、日本では「芸術監督」なんてほとんどいない時代だったから、なかなか大変だったと思いますよ。小池さんが芸術監督になってすぐ、まだ僕がつくばに行く前、『青』(1996年)や『パレード』(1997年)をつくばで上演したんです。劇団側の制作として関わった吉井さんに聞きましたが、市議会では反勢力みたいな人との対立があったそうです。「なんで照明にこんなにお金がかかるんですか?」みたいな質問が飛び交った。つまり、「照明の設備はすでにあるんだから、こんなに経費がかかるはずがないだろ!」って糾弾されたりしたそうです。「仕込むのに人件費が」とか「追加の機材がこれだけあって」という説明がなかなか通用しない。その余波で、僕が入ってから、すでに『春昼』(1998年)っていう公演はやることに決まっていましたが、なかなか小池さんの、というか、タラフマラの公演をやる機会が作れなかった。何年かに1回やっと出来るみたいな感じで。毎年やるっていうのはちょっとこう、気まずいというか、財団職員の中にも「いや、それは続けては出来ないよ」みたいな感じの雰囲気があって。そんな中でも小池さんは粘り強くやっていたと思います。実態は芸術監督というより非常勤の、いわゆるプログラムディレクターに近い感じでしたが、結構バランスを考えて仕事をされてました。

山内:具体的にはどんなお仕事だったんですか?


つくば舞台芸術フェスティバル1998

今尾:舞台芸術フェスティバルのような形のものを開催することにして、自分の芸術性というか作品性と少し繋がる、いわゆる先鋭的な作品はそこでやるようにして、他のところでは、古典芸能やポピュラーなものをやる、というようにプログラムを組んでいました。最初に小池さんに、白石加代子さんとイッセー尾形さんには、「とにかく声をかけてくれ」って言われましたね。知名度も高いし、一人芝居ってことであんまりお金がかからなそうだったからかもしれませんが(笑)。ただ地方でも公演可能で質が高く、かつリーズナブルな作品は本当に少なくて。それで僕はつくばから高速バスで遠征してとにかく舞台をみるようにしてました。年間100本を目標に舞台をみて、いろいろと面白いものを探していました。劇団の地方でのツアー情報などを仕入れて、できるだけコストがかからない演目や、来日するカンパニーで招聘できそうなものをピックアップして小池さんにプレゼンする、といった感じで。

山内:小池さんの作品、というのはなかなかできなかったわけですね。



小池博史プロデュース

今尾:タラフマラの作品は先ほど話したとおり、3年に1回くらいの割合だったんですが、年に1本ずつ、“小池博史プロデュース”という企画をやってました。「つくばオリジナル、1夜限りのスペシャル公演」という形で、ダンスと音楽をコラボレーションさせるという企画でした。構成と演出、美術を小池さんが担当して、初年度がHRカオスの大島さん、白河さんと山下洋輔さんの組み合わせで、次が笠井叡さんとカール・ストーンさん、岩下徹さんと大友良英さん、キムヨンジンさん、近藤良平さんと巻上公一さん、アリビナさん、ヤープブロンクさんという組み合わせ、最後に木佐貫邦子さんと渡辺香津美さんという顔合わせで5本の作品を上演しています。

山内:他にフェスで上演した作品はどんなものでしたか?

今尾:フェスって言っても予算が少ないので、飛び飛びの日程で招聘した公演を「フェス」っていう名前で括ったというようなものでした。でも、そんな中でもジョセフ・ナジ、ロベール・ルパージュ、インバルピント等々の海外のカンパニーや山海塾など、結構やりました。小池さんは、「一週間くらいで5演目ぐらいがまとまってやるような形にしたい」って、ずーっと言ってたんですけど、「そんなのお客さんの財布がもちませんよ」って説得しました。当時はまだ「つくばエクスプレス」も開通してなかった*4ので、県外からのアクセスが悪かったこともあったしね。

山内:確かにそうですね。

今尾:作品としては99年に「フェスをやろう」となってまず、小池さんから「とにかく大野一雄*5さんをよびたい」っていう話がありました。で、連絡をとって、いろいろ話して10月に上演できることになったんですけど、大野さんが体調を崩されて、チケット発売後に一旦中止になったりしました。確かその後2月か3月ぐらいにあらためて公演をすることができたんですけど。


大野一雄・大野慶人『舞踏の会』(2000年)

山内:でも、この時期に大野一雄さんの舞台をつくばの方々が観られたっていうのは奇跡的ですよね。

今尾:そうですね。車椅子に座られるようになる少し前だから。(大野)慶人さんと二人での上演で、舞台上にひな壇の仮設客席をつくって、通常の固定席を背景にするように踊る趣向だったのですが、興が乗ってきて舞台から背景の固定客席に下りて舞うっていうことをやられて。ゆるやかに段差がついている劇場の固定客席がちょうど海みたいに見えて、その中を漂うように踊っている姿がとても印象的でした。

山内:今回、解散フェスティバルの実行委員会を組織するにあたって、いろいろな人に声をかけさせていただいたんですけど、このつくばの時代に舞台をご覧になったり、ワークショップに参加されたという方々に、実はものすごくお世話になってるんですよ!

今尾:ああ、なるほど。

山内:当時はまだ学生だったという方から、「あの時本当にいい舞台を観たから、今があるんです」みたいに言っていただいて、すごく感動しちゃいました!何か、「文化」ってこうやって作られていくんだなって実感したっていうか…。

今尾:時間かかるよね。

山内:在任期間中につくばの町が変わっていくような実感はありましたか?



創作ワークショップ

今尾:そんなに勢いよく変わらないですよ。だって、僕が初めてつくばに行った時の印象って、「本当に寂しい町に来たなぁ」みたいな感じだったもの。おそらく市民にとっては、「万博開催」とか「つくばエクスプレス開通」みたいな時にショッピングモールがボーンって出来たりするのに比べれば、劇場が一つ出来たからと言って、それほど大きな変化は起こらない。ただ、きちんとしたプログラムを組んで継続していけば着実に変わっていく。公演だけでなく、とにかくワークショップは継続していこう、ということにしていたので、小池さんもものすごいのめりこみ方でやってましたね。それがきちんと通じていたんだなって今になって感じられるのはとても嬉しいですね。

山内:「創作ワークショップ」ということで、毎年、参加される市民の方にあて書きで新作を書いて舞台を作っていたんですよね。毎年参加されていた方もいたと聞いています。

今尾:「つくばカピオ」っていう新しいホール以外に、あまり使われていないホールが市内にいくつかあって、そこを一週間ぐらい貸し切りにさせてもらってかなり詰めて稽古をしましたね。

山内:厳しい稽古だったんですか?

今尾:とにかく小池さんがいつも全力なので。流石に小池さんは灰皿を投げたりとかする人じゃないけど(笑)、創作となったら劇団と同様のテンションで、シーンを繰り返し繰り返しやっていて。気づかないうちに足を疲労骨折してたりとか、ホールの壁を蹴っちゃって、穴があいて、後で始末書を書く破目になったりとか(笑)。いろんなことがありましたね。ただ、予算や時間が限られている中で、精一杯をぶつけるように作品を作っていたので、おそらく参加された人たちには強烈な印象が残ったんじゃないかな。小池さんの本気度は確実に伝わっていたと思います。


つくばカピオ

山内:このワークショップで創作された『見えない都市の夢』は、この後パパ・タラフマラメンバーで作り直して上演されて(2004年)、さらにそれが、小池さんが「パパタラ発足以来の目的地だった」と言う、『HEART of GOLD~百年の孤独』(2005年)のベースになりました。

今尾:本当は筑波大学ともっと上手く連携できたり、地域住民の方とワークショップだけじゃなくてもっといろんな機会で繋がれるようなことができていればよかったんですけどね。今だったらいろんなアイディアも出てくるんですけど、当時は僕もそれほど知識がなかったし、小池さんの方も常に作品を作っている人だったから余裕がなかった。だから、つくばでの仕事はそんなに完璧にはいかなかったかなって思いもありますね。「市町村のレベルで芸術監督を置いて、こういう活動をすると、こういういいことがありますよ」っていう対外的な成果をアピールできるところまでは持っていけなかったのは少し残念です。ただ、おそらく影響を受けているであろう人たち、例えば「百景社」っていう筑波大出身の劇団があるんですけど、そこはプロの劇団としてやっていこうと明確な目標を掲げて活動していて、静岡の演劇祭や、三重県文化センターの企画に呼ばれたり、利賀演劇人コンクールで優秀賞を獲ったり、つくばに留まらない活躍をしています。

山内:へ~、そうなんですか。


インバル・ピント・カンパニー
『boobies』(2005年)

今尾:それから、イスラエルの「インバルピントカンパニー*6」の公演を05年につくばカピオでやったんですけど、終わって半年とか1年とか、それこそ何年か経ってからも、「あの時の公演は良かった」ってお客さんから何度も聞かされた。今でも、作品のラストの余韻がずっと残っているような感じで。その他にもいくつか、ルパージュや山海塾など、つくばのお客さんの記憶に長いこと残っていくような公演ができたように思います。

山内:舞台って生でやってるから、本当にいいものを観た時って、なんて言うか、「人生の体験の一部」になるんですよね。あの時、あの場所にいたっていうのが、まるで社会事象と同じぐらいの大きさで自分の中に残る。

今尾:10年ぐらい経ってからだけどね。それを実感するのは。

山内:2004年に小池さんは芸術監督を辞めることになるんですけど、当時のことは憶えていますか?

今尾:実行委員会のメンバーがだんだん削られていったあと、アドバイザーという形で松井憲太郎さん(現・キラリ☆ふじみ館長)にご協力いただきながらプログラムを進めていました。でも結局、まあ、予算的なことが大きかったんだと思うけど、芸術監督体制の継続が難しくなってしまいました。小池さんにとっても、つくばでの仕事とタラフマラの活動とがずっと上手くコミット出来ないままだったしね。つくばでタラフマラの公演をやるのなんて稀なのに、毎年ものすごいお金がタラフマラに流れてるようなイメージを持たれていたし。小池さんのギャラなんて、「よくこれで監督って言えますね」っていうぐらいの微々たるもので、そういう意味では本気で地域に根ざそうという思いは確かに強かったけど、金銭的な面ではタラフマラにそれほどメリットがなかった。だから、「もう契約更新しない」って言われても、「そういうことならいいですよ」みたいな感じで割とすんなり受け入れてましたよね。

山内:そうだったんですね。業界から糾弾されたような話も少し聞いたんですけど。

今尾:ええ?!それは、聞いてないなあ。

山内:部外者から見た勝手なイメージだったんでしょうね。「あんだけ “やんちゃ”やってりゃ、無理でしょう」みたいなこという人もいました(笑)。

今尾:怖いなあ…。本当にかなり一生懸命バランスをとっていこうとしていたんですけどね。でも、小池さんはとにかく自分の作品性を曲げない、というか、アーティストとしての姿勢は一般の人に対しても絶対に変えないでやってきたからね。そこはもう少し制作の方で上手くアレンジをしていい形で対外的にアピール出来るように持っていけていれば、とは思ったりします。今だったら、例えば、「この劇団の公演がある時は必ずロビーにいて下さい」とか、そんなことを言うだけでも全然違ったかもしれないと思うんだよね。「つくばの顔」みたいな感じで打ちだしていれば違っただろうなって。もともとそんな風に小池さんを前面に出すとよくないんじゃないかっていう考えからスタートしちゃったんで、軌道修正が上手くできなかったのは反省点ですね。

山内:「芸術監督」という仕事がほとんど認知されていない時代ですからね。そんな時に特攻隊のように行政に突っ込んでいったんですから、それだけでもすごいと思います。

今尾:まあ、ねえ。市役所の中っていうのはいろんな人がいて、全く文化に関心がない人もやっぱりいるし、尽力してくれた市議の方が選挙で落選してしまったり。そういうところと関係性を継続していくのは本当に難しい。成果を見せられるまでにはある程度時間がかかるしね。

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