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【制作者のキャリア】第4回ゲスト:寺本真美(株式会社ヴィレッヂ/「劇団、本谷有希子」)

12.12/24

ヴィレッヂの現場に入り、「正しい演劇の作り方」を知る

 

――制作のお仕事、というか本谷さんとのお仕事を、職業として捉えるようになった瞬間、というのはありますか?

正直、その当時はお金を貰っていなかったので、職業という感覚はなかったですね。それはやっぱり、会社に入ってからかな…。

――本谷さんと共に株式会社ヴィレッヂに所属するまでにはどんな経緯があったんですか?

上京してきたものの、舞台制作について何の知識も繋がりもない、という状況だったので、とにかくいろんな劇団のお手伝いに行かせてもらっていたんです。ある日、本谷から電話がかかってきて「劇団☆新感線がケータリングのスタッフを探しているみたいだったから、うちのがやります、って言っといたから!」って突然言われて。「えー!」って(笑)。新感線は商業公演だしサイズも大きいし、「すごく厳しいんだよ」みたいな噂を聞いていたのでかなり狼狽えたんですけど、覚悟を決めてヴィレッヂに面接に行ったんです。結局、『レッツゴー!忍法帳』(2003年12月~2004年2月/池袋・サンシャイン劇場ほか)っていう“ネタもの”のお芝居に付くことになるんですけど、それが私の初めてお金を貰った演劇のお仕事になりましたね。その当時の新感線はまだ、スタッフとキャスト合わせて100人くらいの座組でしたけど、私にとっては未知の世界でした。私たちがやっていた小劇場とは全く比べものにならないくらいシステマチックに舞台作りが進行していました。すごく刺激になったし、勉強になったし、先輩方にも鍛えられましたし、芝居を作る上で何が物理的に必要で、どういうスタンスで関わっていくべきか、みたいなことがそこでようやく分かりました。「本当の現場を見た」という状態でしたね。私、あそこで新感線のお仕事に付いていなかったら、きっとここまで制作を続けてこれなかったと思います。演劇を仕事にするというリアリティに辿り着けないまま、お芝居の現場から離れていたかもしれないですね。それがちょうど2003年の冬で、その時には2004年の秋に青山円形劇場で『腑抜け~』を上演することが決まっていたんですが、そこで観客動員をそれまでの2倍にしなきゃいけないという状況だったんです。

――え、前回公演で動員が落ち込んだんですよね?それなのに2倍にするって…すごいノルマですよね。

本谷の凄さはそこだと思うんですけど、勝負に出るんですよ、絶対引かない。これは制作としても崖っぷちでした。これでもし更に動員を落とす結果になったら、もうこの劇団を続けられないかもしれない…みたいな、本谷にとってもスタッフにとっても「ここを分岐点にする」っていう意識が明確にあったので。私が新感線の現場に付いたのもそのための修行なんです。『レッツゴー~』の後に『髑髏城の七人~アカドクロ』(2004年4月~6月/東京厚生年金会館大ホールほか)に付いて、さらにヴィレッヂプロデュースの『真昼のビッチ』(作・演出:長塚圭史/2004年7月~8月/新宿・シアターアプルほか)にも付きました。『真昼の~』では、阿佐ヶ谷スパイダース制作の伊藤達哉さんなど、新感線とは違うスタッフの方々と一緒にやることが出来て、そこで一気に「正しい演劇の作り方」というか、お金が動く公演ってこういう風に作るんだ、みたいなことを現場で体験しました。いのうえ(ひでのり)さんの芝居、長塚さんの芝居、本谷の芝居、全く違う3つの芝居に短期間でぎゅーっと関われたので、その1年は、詰め込み過ぎるほどにいろんなことを吸収した時期でしたね。

――その経験から持ち帰ったものは大きかったでしょうね!『腑抜け~』の時は、寺本さんが制作セクションのチーフを?

そうですね。公演に向けて“キャスティング”というものにも初めて関わりました。阿佐ヶ谷スパイダースの伊達(暁)さんとか、俳優座の森尾(舞)さんとか、吉本菜穂子さんもしかりですけど、どうやったらお客さんが入るキャスティングになるのか、当然「本谷有希子らしさ」も残さなきゃいけないし…ということをたくさん会議して。その時から、今のキャスティングに通ずる感覚っていうのは始まっていると思いますね。座組みのバランスを考えながら「この人が入るなら、ここはこの人がいい」みたいな。

――じゃあ、現在まで寺本さんもキャスティングに加わっているんですか?

そうです。私の提案に対して、本谷が感覚で返して…みたいなことを、2人で延々とやってます。そこが一番本谷と話をしている時間かも。

――結局、目標だった動員は達成できたんですか?

達成出来ました!お釣りがくるくらい回復出来て。ほんとよかったなあと思いましたね。

――それは、寺本さんにとっても大きな自信になりましたね。

はい。「やっぱり本谷の書くものは面白いんだ」という気持ちもそこで持てましたしね。演劇がどういう風に作られているとか、どういう世界でやられているのか、ということが分からないうちって、客観的に劇団のことを考えられなかったりするんですけど、いろんな環境や現場を知ってようやく、演劇シーンにおける本谷有希子という才能について認知したというか。「こういうことが出来るってことは、もっと大きくなれるかもしれないな」という手応えを、その時初めて体感したかもしれないですね。

――ターニングポイントになりましたね。

本谷にとっても私にとっても、ほんとに分岐点となる公演でした。一度死にかけたという感じ。蘇生したな、っていう。

――外から見ていると、すごく順調に大きくなっていったな、というイメージがありましたけどね。

毎回、恐怖のようなものを感じながらやっていました(笑)。常にお客さんの興味を引き続けなきゃいけないので決まったことが出来ないし、順風満帆な感じは一切なかったですね。

演劇の中だけのお客さんにアプローチしても意味がない

 
――ヴィレッヂにお二人が所属するのは、その後すぐですか?

その翌年の公演『乱暴と待機』(2005年4月/新宿シアターモリエール)が終わった後くらいですね。以前からヴィレッヂの社長の細川(展裕)から、「うちに入らないか」という話があったんですね。それは多分、私が新感線の現場に入っていたのもあって、「このまま放置していたら、のたれ死ぬかもしれない…」と心配してくれていたのかな(笑)。それで、「本谷も一緒に入って、うちの会社で制作やれば?」と提案してくれたんですけど、私も本谷もその頃なんだか大人を全然信用していなくて(笑)。

――怖かったですか?(笑)

怖いです(笑)。そんな大きな劇団のところから来いと言われても、作風も何もかも違うし、「なんか変な風にされちゃうんじゃないか?」という意識と、「ヴィレッヂとして何のメリットもないじゃないか!?」という意識があって。あと、お客さんとか周りの反応がどうなるかも気になりましたね。ちょっとでも資本に傾倒すると、小劇場のお客さんが離れていきそうで。半年くらい返事を保留にして何とか自分たちだけで出来ないかといろいろ試行錯誤したんですけど…。ある日、本谷と一緒に、社長に正直に聞いてみたんですよね。「我々を入れることで、何の得があるんですか?」って。そしたら、「いや、得とか損とか考えてないけど。才能があるんだから、それが十分に発揮される環境でやったらいいんじゃないの?例えば半年とか1年ここでやってみて、嫌になったら辞めればいいし、その時考えなさいよ。」って普通に言ってくれて。「じゃあ信じよう」ということでヴィレッヂに入ることになったんです。

――まあでも、本谷さんの才能を認めていたからこそのオファーではありますよね。それでもやっぱりビックニュースでしたね。ヴィレッヂというのは意外でした…。

「何でヴィレッヂが!?」ってなりますよね(笑)。あの当時、細川が盛んに“シアターパトロール”をしていて、小さい劇団をたくさん観ていたタイミングだったんです。それで、「本谷」の第四回公演(2002年2月/三鷹・武蔵野芸能劇場)を観に来ていたんですけど、それって実はパルテノン多摩の小劇場フェスティバルで最下位になる作品なんです(笑)。私も他のスタッフも誰も細川のことを知らなくて「なんかすごく業界くさい人が当日券に並んでるけど……」ってみんなでざわざわして(笑)。その当時のことを細川が言うには、「噂の割に芝居はすごいつまらなくてどうしようかと思ったけど、その後のアフターイベントを見て、この子は面白いって確信した」って。そのイベントでは、本谷と本谷の実のお父さんが、檀上で「このまま仕送りを続けるか否か」について話し合う、ということをやっていたんですね。細川の目に止まったのは実は芝居ではないんです(笑)。だから、これはとても特殊なのかもしれないなと思います。

――“シアターパトロール”をしていたということは、少なからず事業戦略として新しい才能との出会いを求めていたんでしょうね?

その当時から細川は、「ヴィレッヂプロデュース」や、後に「村フェス」(演劇村フェスティバル※細川氏企画による演劇祭で2008年からスタート)になる形態のものとか、「若手に何か場を作る」企画を考えていたんだと思うんです。そんな中で最もヴィレッヂとして意外性のあるうちを選んだというところに、私たちにとっても納得のいく話題性があると思いました。「お前たちの好きな演劇を好きにやらせてあげたいんだ」というよりも、「面白い会社に映る道具として本谷を選んだ」というのが、寧ろ信頼できるなと思いましたね。

――ヴィレッヂに入って、大きく変わったことはありますか?

キャスティングに関していうと、ヴィレッヂという会社に所属することでやりやすくなった部分も多いと思いますね。芸能界で活躍する俳優さんへのオファーが増えていったのも、商業的感覚で捉えているというよりは、たくさんの人に観てもらうには演劇の中だけのお客さんにアプローチしても意味がない、という感覚が昔からあったので、私たちにとっては必然だったりするんです。例えば、自分がお客さんだとして、「誰がどういう役をやっていたら観たい?自分の好きな俳優さんって誰?」って考えると、やっぱりテレビや映画で観る人になるっていうのがあって。そういう選択をしていく劇団としては、事務所が機能していることですごく動きやすい。

――キャスティングの選択肢がぐっと広がりましたね。

声を掛けられる俳優さんがどんどん増えていくのは、当時すごく楽しかったですね。自分の好きな小劇場の俳優さんと、映画やテレビ等の俳優さんが出会って一緒の舞台に立っているのを見て、「繋げているんだ」という感覚がありました。その感覚は小劇場出身のプロデュースユニット特有の動きでもありますよね。あとはやっぱり、金銭的なことは大きかったです。資金繰りの不安が少ない状態で公演準備を進められるようになったのはありがたいことでした。

 

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