制作ニュース
- 大澤寅雄 文化生態観察日記 | vol.8「「群れ」のための場所としての劇場」
-
15.02/01
冬の田んぼには、スズメとかカラスとか名前の知らない鳥が、それぞれ群れてエサになるものをついばんでいます。そこで、最近は田んぼを歩きながら「群れ」を観察するのが楽しみです。
例えば、数十羽のスズメが、飛び立って、方向を変えて、電線や民家の屋根に移動する。そうした群れの形や動きをじっと見ます。一斉に飛び立ち、一斉に方向を変えるものの、まったく同時というわけではなく、やはり動きにはズレがあったり、そうした動きの変化によって、群れから外れる個体もあります。また、群れ以外のところから合流する個体もあります。
群れの動きは、個体の動きとは違ように見えます。例えば、それぞれの個体が、エサを食べるために頭部を動かしたり、エサを探して歩いたり、休憩したりしている動きと、群れになって飛び立って、動きを変えて、降りてくるときは、動きの質が違うような気がします。個体の動きは、個体自身の「能動的」「判断」「行動」が動きになっているような気がします。一方、群れの動きは何か外部の要因に対する「受動的」「反応」「衝動」が動きになっているような気がします。
ところで、劇場やホールでは、演劇やダンスを見たり、音楽を聴いたりすると、一斉に笑ったり、一斉に息を飲んだり、一斉に拍手したりします。そのことは、多くの人が経験しますね。私はときどき、劇場の客席全体が沈黙に包まれていて、誰も身じろぎもしていないのに、こんな風に感じる瞬間があります。「いま、この場にいる人たちの心が振幅している。舞台と客席の間だけではなく、客席間で振幅し合っている。右隣の席に座る人の心の振幅が私の心の振幅を増幅させて、私の心の振幅が左隣の席に座る人の心の振幅を増幅させている」と。
それは「群れ」が動く原理にとても似ています。もちろん私たちは、舞台上の表現を単に受動的に見聞きしているだけではなく、頭の中で考えたり、想像したり、批評しながら、能動的に鑑賞しています。しかし、何らかの共感や快楽を感じるときは、「能動的」な「判断」や「行動」によるものではなく、「受動的」な「反応」や「衝動」が共感や快楽の基点ではないでしょうか。ですから、劇場とは、個人であることを越えて、共有空間での出来事に対する、「人間の群れ」としての反応や衝動が起きている場なんじゃないかと。そのような何らかの反応や衝動が同期する人間の群れを、私たちは「コミュニティ」と読んでいるような気がします。
また、生物の群れを例にすると、他の群れとの交流がなく、群れを構成する個体が固定化されて繁殖し続けると、遺伝的な多様性が失われて群れ全体が弱体化する可能性があります。そのために、他の同一種の群れとの集合、交流、離散が必要になるそうです。これは、劇場という場で起きていることにも、当てはまりそうです。いつも同じ集団で、集団の構成員が変わらないと、群れが弱体化してしまう。だから、群れ同士の集合、交流、離散が繰り返されたり、群れの外部の人間を受け入れたりできる劇場であることが、「群れ」の多様性を維持し、コミュニティの持続可能な環境を形成しているのではないかと。
もっと詳しく群れについて知るために、最近、郡司ペギオ幸夫さんという理学者が書いた「群れは意識をもつ 個の自由と集団の秩序」(2013, PHP研究所)を読んでいる途中です。難解な部分も少なくないけど、とても興味深いです。ご興味のある方は、ぜひお読みください。
■大澤寅雄(おおさわ・とらお)■
文化生態観察。(株)ニッセイ基礎研究所芸術文化プロジェクト室准主任研究員、NPO法人アートNPOリンク事務局、NPO法人STスポット横浜監事。2003年文化庁新進芸術家海外留学制度により、アメリカ・シアトル近郊で劇場運営の研修を行う。帰国後、NPO法人STスポット横浜の理事および事務局長を経て現職。共著=『これからのアートマネジメント”ソーシャル・シェア”への道』『文化からの復興 市民と震災といわきアリオスと』。
ピックアップ記事
ネビュラエンタープライズのメールマガジン
登録はこちらから!