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- 「今あるモノを花ひらかせよう」鹿児島県大隅半島に移住したダンサーJOUの芸術地域おこし活動レポート Vol.12
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15.07/07
あなたであることの意味
「いよいよ最終回!」と書いてからさらに時間が過ぎてしまいました。
一昨年のコラム開始から長きに渡り、おつき合いくださいまして本当にありがとうございます。
【ダンス事始めの前の自分】
毎月第3土曜日に開催するきしたんカフェ。
やってみたかったことを実現するためのチャレンジハウスでもある。肝付町岸良
私のダンス歴は、OLの習い事、23才の時が、初めてのダンスレッスン体験でした。
当時、原宿にあった会社から歩いていける表参道にできた、確か「ヘルス&アカデミー」という名前の日本で最初のダンスの専門学校の存在を、会社に紛れ込んでいた広告で知りました。
当時働いていた企業は、観光や不動産、鉄道などを有し、アート系の施設は兄弟会社にはあるものの、どちらかというとスポーツ系、体育会系でした。身内にもアート系の人物もいませんでしたので、ごくごく普通の一般市民生活をしておりました。いろいろある部署の中でも、全国各地の事業所の支配人クラスの方々とお会いできる部署で働いていた最初の数年間、わけもわからないうちに様々なタイプの「トップ」の在り方を見聞きできたことは、本当にラッキーなことだったと思っております。
それがいきなりダンスレッスンを決意したのには、迷いの時期があったからでした。本社組織に改変で、自分のやっていた部署がなくなり、一時期ヒマな仕事に回っていた時、自分の今と未来を考えて「まずは、行動。何でもいいから、試してみよう!」と「10年前の13才だったら、やりたかったことリスト」を作ってみました。これは、母の何気ない口癖が反面教師になっております。母は若い時分から「ああもう年だわ」と言い続けていました。30代には20代の自分と比べ「無理がきかなくなった」40代には30代の自分と比べ「昔はもっとできたのに」。50になっても60になっても、それを言い続けています。「どうせなら逆の発想で自分の未来を考えたら、今やるべきことが見えて来るかも」と思ったのです。「10年後の自分から見たら、今の自分は十分若い」という発想です。これは、今でも私の座右の銘のようになったおります。 「今を昔と比べマイナスに捉えない」「未来の自分からみたら、いくつになっても今の自分は若いのだ」という発想です。年を取りたくないとか若作りをしようとか、そんなことは全然、思いません。自分を常に未来ある肯定的なイメージで考えること。それが大切だと思っています。
「何をして良いかわからない」「何から始めて良いかわからない」という迷い子状態だった当時の私ですが、「何事もやってみなければ、始まらない」という考えだけは持っていました。なので「もし13才だったらやりたいことリスト」を1つずつ、つぶしていくことにしました。アフターファイブでお稽古事、というやつです。「絵を描いてみたい」という項目もあったので、桑沢デザインの夜間デッサンコースに通ったりもしました。「実はダンス、やってみたかった」という項目をつぶすために夜間コースに入学した1年間、わけもわからず週2回、そのうちの1人の先生は、今思うと、現在新国立劇場の監督をされておられる望月さんのお弟子さんでした。しかし、全く素人の私には、その有り難さもわからず、たまたまレッスンを見にいらした望月氏から「うちのお稽古場にいらっしゃい」とお声をかけて頂き、一度は出向いてみたものの、あまりのレベルの高さとストイックさに尻尾を巻いて退散した当時の私です。
その後もいろいろな所に顔を出しましたが、コンクールや発表会があるような習い事は、幼稚園のオルガン教室以来、全然したことがなかったので、日本特有のあれらの張りつめた雰囲気がどうにも苦手。それどころか、そうした雰囲気があると、どうやら萎縮してしまって、何もできなくなってしまうようでした。
【始まり方と始め方】
夢をかなえるには3つのステップが必要です。
2.まず、やってみること。
3.あきらめずに、やり続けること。
きしたんカフェvol.3では、移住希望者と住民の交流にわいた。
OLの習い事で始めたダンス。まずやってみた時期。「もっとガッツリやってみたい」と思うようになって、アメリカの海外駐在になって、そこで怪我する程ダンスクラスを朝から晩まで受けまくった時期。怪我をリハビリすべく、ピラティスのインストラクターコースの修行をした。日本に帰って来た時、苦手なコンペの雰囲気にこてんぱんにやられながらも「舞台で作品を発表できる良い機会」と前向きに挑戦した時期。「これでもし何か受賞したら、もうそろそろダンスはやめてもいいかな~」と一区切りつける気持ちで出た横浜ダンスコレクションでは、2年連続出場で何の賞もとれず、本番の不出来具合があまりにも悔しくて、結果、なんだかんだと続けてしまった時期。「東京のダンスシーンは、ざっくりわかった。次なる未知の居場所は?」と探してたどり着いた鹿児島。そこでの地域活性化とダンスを結びつけて、何もかも始めてづくしのことに挑戦し続けた時期。
様々な未知との遭遇を果たしながら、常に大事にして来たのは、「まずはやってみる」。不完全でもいい。失敗してもいい。まず、やってみた先に、次なる課題や道が見えて来るから。そんな丸ごと体当たりの連続でこれまで進んできました。「うまくできることをやる」ではなく「やってみたいこと、やったことないこと、できないことをやる」のですから、当然、うまくいくわけがありません。あきれたことに、肝心のコンペの時にすら、そんな挑戦をしていたのでした。
結果、逃したことも沢山あります。
でも、後悔はしていません。逃したから見えたことがあって、そのお蔭でわかったこと、持てたことが沢山あります。
それを今は、先に教えてしまったりします。後から生まれた世代は常に、先人の積み重ねの上からスタートするので、古という枠を外れるとそこには、人類の進化のスパイラル上昇を見ることができます。
始め方がわからない人は「うかつに始める」ことをおススメします。
「ダメ元」で。何をやっていいかすらわからない人は「10年前の若い自分だったらやってみたかったこと」をやってみましょう。それすらない場合は、「誰か、頑張っている人を応援する」「目の前の人を助ける」でも良いと思います。どんな小さなことでもそれをやり続けていると、その先の道が見えて来ます。
経験が自分の力になって、後押ししてくれます。
【アイデアは、経験と疑問の引き出しからやってくる】
初めて会った同士でも、プロジェクトを一緒にやることで、絆が生まれる。
vol.8ではアイデアとイメージの話をしました。
ひらめきとか感性とか、それは特別な才能がある人だけに許されたものではありません。
自分、周りの人、周囲の空間やエネルギー、起きている出来事、などを感じることができれば、そこに答えはあるのです。
「問いある所に答えあり」です。どんなことでも、見たこと、聞いたこと、体験したこと、がアーカイブの引き出しとなり、アイデアはそれらの組み合わせにより生まれます。だから、引き出しは多ければ多い程良いでしょう。いろんな種類の立場、異文化、などなどを経験することに、何も特別な準備はいりません。「違う景色を違う視点から見たい」と思って行動するだけでいいのです。
例えば、私は人の話を聞きながら、その人の立ち位置や抱えている問題、価値観などを自分なりに理解しようとします。その後で、自分ができるその人のためになりそうなことは何か?と考えると、アイデアが浮かびます。それで、ぐいっと企画が進むこともあれば、「何もそこまでしなくても」と消えてしまうこともあります。
自分自身の疑問や問題を解決するためのアイデアとして振付けしたこともあります。
「この骨張った身体でできる動きとは?」がテーマだった時期もあれば、「女性性とは?」がテーマだった時期もあります。
日本に限らずダンサーがあまりにもリハーサルに揃わないので、「個別にリハーサルして、本番でだけ合わせることは可能か?」というお題に挑戦した作品もありました。
作品創作だけでなく「海外でプロとして活動している日本人に海外の芸術環境の話しを聞く会」シリーズをやるきっかけは2つありました。
1.海外のダンスの環境はどういうものか?を日本のダンサー達と共有したい
2.海外で活動している日本人は、日本に帰って来るとその経験をわかつ場所がないので、その橋渡しのきっかけを作ろう
15年前、海外生活から日本に帰って来た当時は、自分だけが海外を知っている、というような時期でしたので、沢山のカルチャーギャップがありました。
日本でお稽古していないので、日本の業界の常識もわからず、かといって、海外では「駐在員の家族」(海外では正規に働けない)という立場でのアマプロ的な活動でしたので、きちんと契約のことがわかっているわけでもなく、両方知っているが両方中途半端な自分にとっても、両者をきちんと知る良い機会になりました。また、話してくれた方、話を聞きに来てくれた方、後からブログで話しを読まれた方、など、いろいろなところで、お役にも立ったようです。「自分にとっても必要な有益情報を、自分で独り占めしないで、広く業界内に共有する」という信念で開催しておりました。
そんなこんな、女性のファッションが、年齢や時代とともに変わっていくように、自分自身のアイデアやテーマ、疑問も、答えがなんとなく見つかった時点でどんどん次へと移行して来たように思います。
【アートって、何になる?】
隣町からの依頼で完成した、イラストガイドブック。作業の中では、プロデューサーとして調整役に徹し、武蔵美の学生達の底力を、見た。
自分の出所と自分の家族が、「アートって何?」的な一般ピープルでしたので、こちら側に足を突っ込んで以来、どうしても「あっちとこっちの橋渡しをしたい」という方向を意識してしまう傾向にあります。資本主義の一般社会では、純粋にやればやるほど、収益が上がらない芸術世界は、不可解以外の何者でもないのです。これは、鹿児島での生活でますます顕著になりました。業界の有名人が来ても「お若いの、はるばるきたんじゃから、これを食べて」的な純朴な対応が新鮮で楽しくてたまりませんでした。それは、ゲストとしておおすみ-かごしま芸術祭や踊る地域案内所などを機に、来訪してくださった皆さんも同じだったようでした。業界では当たり前の言葉や価値観などが、ゼロになってしまう面白さをたっぷり堪能しながら、一番悩ましかったのが「お稽古事のお師匠さんとプロのアーティストの違い」をどう定義し、認識して頂くか?という点でした。これは、未だに熟考の最中で、的確な言葉が見当たりません。大なり小なり、かぶってもいるからです。一方では、気軽な場所で軽く踊ったのを見て「さすがプロですね。たまげました。」と心から言って頂いたりすると、そんなことをハナから期待していないので、逆にビックリこそばゆくなったりもします。テクニックを強調しない類いのダンスの場合「あれなら、オレもちょっとやればできる」と豪語する方もいます。だったらまず、やってみればいいんです。やれば、何かがわかるから。
【アートの定義】
築地本願寺のお葬式の日、敷地内の別イベントの垂れ幕メッセージが心に響いた。
「遭えて、良かった~生きる喜びを大切に」
「アートとは?」という定義に答えなければならないとしたら。私の定義は以下の2つです。
1.社会的には、海の波の白波の部分(波が始まる先駆けの部分)が、アートであり、のこりの波の部分が時代や社会である。アートの表現の場で提示されるものや作られる過程の模様は、必ず後から動いて来る時代の先駆け的役割を担っている。
2.人間個人的には、数字では割り切れない人間の身体と心が存在するために必要不可欠とする「余白、あそび、すき間」の部分。
お金や数字では割り切れない大切なもの。それは、アートだけではありません。文化、叡智、心遣い、愛情、思い出、伝統、連帯感、などなど。スポーツや武術などを通じて、それらが育まれることも多々あります。しかるに、アートには、国境がない。年齢制限や能力制限もない。やりようによっては勝者も敗者もない。個々の個性と技能が創造的に進化していくことがアートのもつ特性なのだとしたら、ここにはまだ未曾有の可能性が隠されているように思うのです。
ただ、いかんせん、お金ありきの社会の仕組みの中で、アートの持つ特性のひとつである「創造性」は、お金の仕組みを凌駕できずに、その仕組みの中に飲み込まれ、苦しんでいるというのが現状です。組織ではなく個人が基本ベースであるが故の現象なのかもしれません。
だとしても、今日のそのアクションは、例え日の目を見ることが極端になかったとしても、白波の一部として、世界になんらかの影響を及ぼすであろう。そんなことを考えます。
【アートであることの意味】
町の人たちの集まりで、ダンスとストレッチをリード。会場参加型のダンスをナビゲートしながら、人と人を、つなぎ、テレビには出ないダンスの世界を一部でも、紹介する。
鹿児島県肝付町波野小学校
YCAMの雇用で山口に移住し、古民家を改修してアトリエを造り、活動を続けている知人がいます。
これがもし、普通の工場などの従業員としての雇用だったとしたら、彼は、雇用がなくなった時点で、次の雇用に向けて転居していったことでしょう。自分の拠点として、新しい町の顔を作りだすことまでしている。これが、アートの力なんだなあ、と思ったものでした。プラスαの何かが生まれる創造力や実行力が、アートの人々にはあります。常に何かを主体的に生み出さずにはいられない人達だからです。ゼロから何かを生み出すことができる力。時には個人で、時には連帯して。スポーツを否定するつもりはありませんが、スポーツにはルールや制限があります。アートには、それすらゼロから創りだせる可能性がある。作ること、表現すること、発見すること、問いかけること。ルールそのものすら問いかけ、作ることができる。それがアートの自由さ、魅力です。「アートは、なくても暮らしていけるけど、一度知ってしまったら、なしでは物足りない。」そんな言い方をした経済界の方がいました。こういう感性を持つ経済人が増えるといいなあと思います。
目に見えない、数字に現せない何かを抽象的に具現化する役目。アートだからこそ、できるのだと思っています。
目に見えないもの、数えられないもの、しかし、確かに存在している何か。
「感性」があって始めて感じることができる何か。人生を豊かにする何か。
アートによって人は、そうした能力を向上させることができるのだと思います。
スポーツの勝敗は、得点という数字で明確に表されます。
ビジネスの損得も、収支という数字で明確に表されます。
しかし、数字に表れない「満足度」「やりがい」「使命感」などの、人の心を満たす何かがあるからこそ、そうした数字の結果を出すことができる、というのもまた、確かです。
私はほぼ無宗教ですので、何も詳しいことは言えませんが、
宗教にも、数字ではない「心持ち」の満足度や幸福感が得られるのではないかと思います。
が、宗教にはそれぞれの教典があり、そこには、信者が進むべき道が明確に示唆されています。
アートには、そういった教典のような「こうすべき」ルールはないところに、大きな可能性があると思います。
唯一教典としてあるとすれば「自由」。つまり、「ルールすら壊して作ることができる自由さ」ではないかと思うのです。
「地球は丸い」にしても、そもそもの土台を疑ってかかることで真実を発見し、人類は進化して来ました。社会の維持のためには、規律を守ることが必要不可欠ですが、人類の進化のためには、アート的な「自由な発想」が必要不可欠なのではないでしょうか。
【アートによって人はどういう変化を生むか】
高齢者にも、まだまだ元気で活躍してもらわないと。
ホッとスッキリ塾では、沢山の魅力ある皆さんにお会いできました。
私自身、23才でダンスを始めるまでは、「アート」とは無縁の生活でした。23才で始めたあと数年、しばらくは同様でした。それ以前には、歌舞伎やお能、雅楽を母と一緒に見に行ったり、美術館での展示の招待券や映画の券などが手に入った時に、見に行く程度。特に自分で身銭を切ってアート的な場所へ足を運ぶことはありませんでした。
変化は、自分で作品を作ることになった頃に現れます。時空間を作るために何を参考にすれば良いのか? その時に、他の分野のアートが非常に参考になります。
作品創作の最初の体験は、アメリカの大学の先生の授業でした。新聞や雑誌の写真のポーズを作る、から始まって、いろいろなお題で、少しずつ、自分のダンスを作る体験をしました。
高校の授業でイヤでイヤでたまらなかった「創作ダンス」の内容と違って、実に上手にイキイキと、創作の世界に引っ張り込まれました。アメリカ人の褒め上手も幸いして、本当にやるそばから褒めて頂き、本当に有り難いスタートでした。そうしてアートが少しずつ身近になって来ると、何が変わるでしょうか? 世界が少しだけ、変わります。見えているものから、見えないものを創造したり感じたりする能力が養われました。エネルギーのようなものかもしれません。「感性」のひと言で片付けられてしまうような何か、という気がします。
少なくとも私自身は、変わりました。お金や人の物差しでばかり図っていた自分の幸せが、実は、誰にも左右されない自分自身の中にあり、創造性と言うのだ、ということを気づかせてくれたのがアートとの関わりでした。アートに慣れ親しみ、そこに到達するには、しばし時間がかかります。今でもまだ、アート畑で育った皆さんに比べたら、知らないことが多すぎると感じます。
それでも、自分の人生の本質を変えるのに充分な本質的な要素を、アートとの関わりが与えてくれました。そのひとつは、人の物差しから、自分の物差しへ、ということです。この変化には、今でも感謝しています。
【アートを通した人と人】
きもつき平野
ここまで書いていて、突然の訃報がありました。
私が鹿児島に移住した時に、副知事として総務省からの出向で、鹿児島県におられた丹下甲一氏が急逝されました。文化芸術との関わりも深く、鹿児島市内のありとあらゆる文化人、経済人の場に足を運ぶフットワークの軽さで、沢山の鹿児島人から慕われ、頼りにされていた方でした。私も、最初のおおすみ芸術祭の時から応援して頂き、本当にいろいろな方々にご紹介して頂きました。お役人でありながら文化人であるという稀な存在であっただけでなく、人と人を的確に冷静にさり気なくつなぐその在り方には、品位と愛と情熱がありました。本当に、希有な方でした。創りだされた数々の出会いは、まるで深いアート作品のように、様々な光を放ち、今でも脈々と生き続けています。
心からご冥福をお祈りするとともに、頂いた宿題を、残された時間でしっかりとやっていきたいと思います。
「私とあなた」以外の何か未来へ続く種まきのようなプロジェクトこそが、アートなのかもしれません。そうしたアートを通した人と人とのつながりは、当然、濃く密に、温かく輝くものになっていきます。日々の励ましであり、未来への希望であり、過去の昇華であるところの何かを生み出すことができるからです。
人と人に限らず、人が複数になって形成される「コミュニティ」であっても、同様です。コミュニティの場合は、点と点が面になり、時には流れにもなるので、さらに多くの可能性が期待されます。人の物差しで生きるのではなく、自分の物差しで生きる人が多い社会。「自由」であるはずのアートは、孤立した存在を作るのではなく、拒絶する枠や壁からも自由を創りだして、共生の在り方を示唆してくれることでしょう。そんなイメージで日々、活動しています。
【最後に】
肝付町川上片野老人会の集まりにお邪魔しました。
きしたんカフェ
さて、これからの私、です。
今年、2015年10月末、あと6ヶ月で、鹿児島県大隅半島、肝付町の地域おこし協力隊の任務が終了します。今まで経験したこともなかったような様々な体験をし、多様な価値観に触れることができた2年半でした。辛いことも苦しいことも沢山ありました。沢山のものを得て、沢山のものを失いました。それら全ては、これからの自分の未来に必要だったのだと思います。奇しくも、任期終了後の11月には、鹿児島県が国民文化祭を開催し、おおすみ芸術祭もそのプログラムの中に入れられています。ささやかではありますが、この3年間の総決算ができる機会を頂けたこと、本当に感謝しています。
そして、丹下さんが最後の最後まで進めてくださったコラボレーション公演のプロジェクトを、出会わせてくださった皆さんと一緒に、しっかりと遂行したいと思っています。
鹿児島と東京、時々海外。そうした生活を送るのが理想です。これからも、もっともっと多様な人々に出会いながら、「自由」を体現していければ、と思います。
そして、どんな人にも自分にも「あなた」であることに意味は、必ずあると信じています。
FMきもつき「世界の始まりと未来」
毎週土曜日19:15-30
再放送月曜日11:15-30am
http://www.0033fm.net/nethousou_1.html
■JOU(じょう)■
23才で踊り始める。ダンスで人やモノや場をつなぐ作品作りをする。2008年ソウル国際振付祭にて外国人振付家特別賞を受賞。2013年、肝付町踊る地域おこし協力隊として鹿児島県に移住し、劇場舞台の枠を越え、地域おこしとつながったダンス活動を創作中。おおすみ夏の芸術祭(OAF)2012発起人。おおすみ踊る地域案内所所長。
JOU日記: http://odorujou.net
大隅文化生活http://osumiart.exblog.jp/
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