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「制作のスパイス」第2回:会田 大也さん(東京大学大学院 特任助教)

14.11/18

メディアが埋め込まれた波打つ床みたいな“公園”を設計して設置する。お客さんが何を見に来るかといったら、そこで遊んでいる子供たちの創造性とか、クリエイティビティを発揮している様子とか、アクティビティが爆発している様子。そういう状況を作る。
コロガルパビリオン(2014・YCAM)

「コロガル公園」や「コロガルパビリオン」について、お話をお伺いします。この特異な美術館展示はどういった経緯で誕生したのですか?

「glitchGROUND―メディアアートセンターから提案する、新しい学び場環境」(YCAM特設サイト)
(YCAM 教育普及展覧会/会期:2012年5月19日〜8月12日)
http://re-marks.ycam.jp/2012/glitchground/

コロガル公園(YCAM展示内容・紹介映像)
http://glitchground.ycam.jp/about/#/exhibition

YCAMの「教育普及」の方向性が徐々に出てはじめた2012年に、翌2013年に控える10周年イベントのための呼び水ということで、エデュケーション・プログラムがこれまでどんなことを理念とし、活動を展開してきたかを紹介するエデュケーション展(「glitchGROUND―メディアアートセンターから提案する、新しい学び場環境」)を作ろうということになったんです。

そこでは、(1)過去にやってきたWSのアーカイブ、(2)現在行われているイチオシのプログラムと、(3)YCAMが想像する未来の公園・・・こうなっていたらいいよねというビジョン・・・を示すということで「コロガル公園」という3つの企画を館内で展開しました。

おかげさまで評判も良く・・・数だけで評価するのは一定の危険もふくまれるのは承知の上であえて言うと・・・来場者数もかなり多い展覧会になりました。その結果、翌年の2013年の10周年イベントとしても「コロガル」を再び実施する展開になり、屋外施設の「コロガルパビリオン」へとつながる、という流れになります。

これまで美術館に来ていなかった人もかなり来られたそうですね。

そうですね。ミュージアムで行われていることが、美術の文脈の上でしか通用しないことを展開するだけでは、なかなかエキサイティングな展開は望めない。美術の歴史を踏まえた上で、さらにそれらとは関係が薄いような、つまりアートファンじゃない人たちへも開かれた事業を展開していきたいと思っていました。手法はいろいろあると思います。大人気アニメキャラをフィーチャーした展覧会を作るのも一つかもしれません。重要なのは、美術史にその内容をどのように位置づけるのか?ということだと思っています。たとえば、ギャラリー内を食事の場へ転換したリクリット・ティラバーニャは、“ものの陳列からことの展開へ”という、美術史を背景とした流れについて確実に意識していたと思います。

参照:リクリット・ティラバーニャ(Wikipediaより)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%AF%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%88

リクリット・ティラバーニャ(東京オペラシティ・アートギャラリーのアーカイブより)
https://www.operacity.jp/ag/exh31rt.php

「コロガル公園」についても、“美術家不在の展覧会”という展開を意識的に考えていました。YCAMのエデュケーション・プログラムという内部の人間の活動を紹介するための展覧会だから、いわゆる一般的な意味での「アーティスト」というのがいないわけです。僕たちはメディアが埋め込まれた波打つ床みたいな“公園”を設計して設置する。お客さんが何を見に来るかといったら、作家が作った作品ではなく、そこで遊んでいる子供たちの創造性とか、クリエイティビティを発揮している様子とか、生命力が爆発している様子である、という状況を生み出した。それは「作品」に値するコンテンツなのではないかと考えました。

完全安全を求めなければこんなに自由にできるんだというようなこと・・・それがわかるといいなと思います。

実際、子供たちが夢中で走り回って遊んでいる様子をYCAMで拝見しました。年齢や体格に応じて降りられる坂の勾配が子供自身で選べたり、チャレンジできたりする施設だと思いましたね。

同時にどういう仕組みかはわからない光の動きや、音が鳴っていたり、勾配の坂が苦手だったり飽きた子は、おがくずの砂場みたいなところで遊べたり、どの子供たちも夢中で遊んでいる姿が面白かったです。

できれば子供たちにとって「初めて見るような場所」が作れないかなと思いました。それは、僕の考える「創造性」ということと関連しています。人間は初めて見る状況にたじろいで思考停止する人と、そこから何かを見いだして興味を持って一歩踏み出せる人が居ると思っていて、もちろん、後者のような人たちが増えればよいと思っています。初めて見るような場所でどんどん遊びが展開していって新しいルールや新しい遊びが生まれていく様子そのものが、見るに値するものと言えると考えました。美術史においてもこの「作家不在の創造性」の話は面白いと思うんですよね。だれか美術批評家に書いてもらえないかなって思っています(笑)。

そういう物語の上でああいうプロジェクトをやっていて。単純に公園を作ればいいってものではない。美術館にああいう公園があって、創造性が発揮されているということだから美術史の側面から見ても面白いと思うんです。そんな中、札幌国際芸術祭からのオファーがあり、YCAMをアーティストとして招聘したいというオファーによって、札幌でも「コロガル公園」を実施できるようになりました。

札幌国際芸術祭2014「コロガル公園 in ネイチャー supported by 札幌丸井三越」
http://www.sapporo-internationalartfestival.jp/

パビリオンに入る際に、「万が一、怪我をしても自己責任で対応します」という同意ボタンを押すにせよ、子供が中で体を使って遊ぶ施設を、公共の美術館が設置運営するって相当許可を取るのが大変だったのではないですか?

日本は全てにおいて安全を完全に保証することを求める風潮が強い。だから一般の公園に禁止事項が羅列される状況が起きる。完全な安全の保証を設置者側に求めなければ、こんな自由な遊びができるんだというようなことを、親も含めて環境全体が理解していくことは重要です。選択肢はあったほうがいいので。たとえばYCAMで言えば、完全なる安全を求めたい人はYCAMのすぐ目の前にある公園の遊具で遊べばいいと思っていました。あそこは何か事故が起きたときのために、遊具メーカーが保険に入っています。

日本の遊具メーカーのジャングルジムはひとつ400万円とかするんですけど、実はかなりの部分は生産者責任の保険代とも言えます。事故が起こったときに生産者の責任を問われ訴訟の費用も補填しなければならない、と考えるとそのようになっていく。コロガルの制作プロセスにおいても、最悪の事態というのをシミュレーションして、こんなことが起きたらこうなる、あんなことが起きたらどうなる、というのをなるべく想定してそこに穴が空かないように手だてを考えて行きました。あと、お客さんには明示しませんでしたが、実際には保険も入っていました。

日本全国にあるいろんな危険そうな公園をリサーチして、どれくらいの事故が起きてるかとか、入ってる保険の種類とか、どういうふうに事故の対応をしているのかを調査して、結果としてわかったのは、事故が起きた時に「想定していませんでした」となるのが一番マズイということでした。何か事故が起きたとしても、まずこれをやる、次にこれをやる・・・というマニュアルどおりに対応をしていくことで、運用全体の危険度を低くすることは可能です。「想定外のことが起きた!」といってあたふたしていたら、親御さんも心配になると思います。安全マニュアルも作ってスタッフに周知しています。

実際のところ怪我をする子供とかはいますか?

擦り傷とかはよくあります。あとはたとえば2mぐらいのところからクッションに飛び降りる場所もあったので、そこで飛び降りた際に自分の膝に鼻をぶつけて脳震盪を起こすみたいなことはありました。鼻血も良くありましたね。

国土交通省の指針では、予測できない危険をハザードと呼んで、例えばブランコのチェーンが切れかかっているとか、滑り台の上の手すりの根元が腐っていて、寄りかかったら落ちちゃうとか、ネジが飛び出してて指や足が引っかかっちゃうとかは、ハザードととらえて、なるべく公園から取り除かなければならない。

でも、ちょっと高いところから飛び降りるとか、シーソーみたいな不安定な床といった要素は、リスクというふうに切り分けていて、リスクっていうのは、それを乗り越える意思によって自分の成長が促されるものだから、リスクを取り除いてしまうことが正解ではないと、明示されているんですね。 国土交通省のような公園を管理する省庁がそういう指針を持っている日本っていうのは、意外といい国だなと思いますよ。

芝生しかない何もない原っぱで、新しい遊びを考えなさいと子供10人に言って2時間自由に遊ばせたら、ひょっとしたらそっちのほうが価値があるかもしれない。

WSの評価というのはどうできるものなんですか?実施効果として。

正直言って、評価については非常に難しいです。子供たちの追跡評価ができるわけではないので。でもアンケートを科学的に取ってみようと実験したこともありました。WSに複数回参加したことがあるグループと、はじめて参加したグループで分け、「アートを見るときに何が大事ですか?」と聞いたときに、どんな答えが返ってくるのか?例えば「わかりやすさ」というものを、どういうふうに捉えるかについて調査しました。

その結果、はじめて訪れた人にとって「わかりやすさ」って重要なんですが、何回もWSを受けてる人にとっては、あまり重視されないということがわかったんです。

そうなんですか。

はい。何度も来ている人というのは相対的に「アート好き」でもあるので、分かりやすさを求めないということも影響していると思います。要素は複合的にあるので、ある側面だけ切り出してそれをさも大きいことのように言うのも何か違うかなと思ったので、今では、あんまり追跡調査そのものに重要性を見出すということをしすぎない方がいいと思っています。変なアリバイを作ってしまったり、アンケート結果を向上させることが目的になってしまったり、といったことにもなりかねないので。

どういうことですか?

助成金の申請書を書く際などには、あえて教育効果を強調して書いたりもしますが、実際に現場で起きていることの創造性って事前に書けるようなことではないってことはわかっているんです。あんまり書面を作ることに精通しすぎると、自分がその言葉に洗脳されてしまうこともあるので、さも素晴らしいことをやっているかのように信じ込んでしまったりするわけですね。そういう自己暗示からは意識的に距離を取らないと危険だと思います。実際に起きていることをよく観察できているか、そこが重要というシンプルな話ですが。

お話を伺っていると会田さんは評価に落とし込まれるものを越えて伝わるもの・・・子供たちがいろいろなものを独自の力で受け取るということを、かなり信じているのだと思いました。

いえいえ、強く信じているというよりは、そもそも子どもはどんな環境からでも勝手に何かを学び取っていくものだと思うんです。芸術の価値が手放しで素晴らしいと信じられるものなのかはよくわからないんですが、少なくとも人類の有史以来、美術や文化的なものというのは、経済とか効率とかがいくら支配していく世の中であっても、人間にとって一定の価値を持ってきたわけで。やっぱりそこには何か価値はあるんだろうなと思います。自分の経験でも、子供の時から学校の授業以外のところで、わかったとかすごくドキドキしたとか納得した!ということはあったので、学校とか美術館とか、所謂しつらえられた中でプログラムされたものだけがいいとも思っていないですし。
よくWSをやるときに考えるのは、やはり原っぱのことです。WSをやると想定すると2時間とか子供の時間を拘束しますよね。

はい

その間に、芝生しかない何もない原っぱで、「新しい遊びを考えなさい」と子供10人に言って2時間自由に遊ばせたら、ひょっとしたらそっちのほうが価値のあることかもしれないですよね。これは本当に創造的なことなので、これに少なくとも勝るぐらいのWS内容は準備しないといけない、とは思います。演劇を見せることも同じかもしれませんが、身体的にも時間的にも拘束された場所で、最終的には2時間後に何を得ているかということが重要だと思うので、少なくとも何もない原っぱで遊ぶこと以上の内容を教育プログラムとして提供する以上は担保したいです。

その場合の基準は、ある意味で会田さん自身が自由な2時間と引き換えにできるぐらい面白いことでないと、ということですよね。

そうです。適当にカラフルな成果物を子供に作らせて、子供をちょっと笑わせて写真を撮って、最終的に報告書にカラフルな成果物と子供の笑顔の写真付けて、いいWSプログラムができました!って書くのは簡単じゃないですか。子供にとって、本当の学びって何なのかってことを考えたときに、そういうことだけを続けたら、もったいないというか、かわいそうというか、真摯でないなと思っちゃいます。自分の子ども時代、子供だましのものとかについては敏感な子供だったので、適当にやられているなと勘付く子供って結構いると思うんですね。

子供の頃、NHK教育テレビの番組が好きだったんですけども、ものすごく手間ひま掛けて作られていたと思うんですね。子供向けに真剣に作ってるっていうのは凄くいいんじゃないかと思います。おもちゃメーカーのタイアップを目的としたアニメだけじゃなくて、ああいう丁寧に作られた番組を英語の翻訳を付けてどんどんネットで海外にも配信したらいいのになあと思います。

会田さんはどんな子供だったのですか?

僕は、本当に面白いものは何なのか、それを教えて欲しいと思っていましたね。
パチンコ玉みたいなものを箱に入れて動かしながら、数時間ずっと挙動とかを観察しているような子供だったんですよ。面白かったんですね。玉が当たって弾かれる角度とか。あそこには何か秘密があるんじゃないかとずっと考えていましたね。

それって何の色もないしすごく地味ですよね。もし、それをテーマにしたWSプログラムを作ったとしたら、おそらく多くの大人は渋すぎるというような意見になると思うんですけども(笑)、記憶の中でそういうことに興味を持ってずっと観察してしまう子供がいるってことを知っているので。だから抽象的なレベルでの科学的なこととか、美術的なものとかの楽しさとか面白さというものを、丁寧に分解し、子供に理解しやすい順序で説明することをパッケージしていくと、それは本質的な部分としては伝わると思うんです。

動物観察のドキュメンタリー番組があるじゃないですか。BBCやDiscovery Channelといった放送局が作るものです。ああいう番組に、大人も子供もすごく熱心に見入ってしまうのは、自然とか進化の発展途上で、生命とか生物がどういうふうに形を変えていったのかとか、そういう大きな知恵のメカニズムが詰まっており、それを丁寧に伝えようとする製作者がいるからだと思うんです。本質的なものを知るということが、知的な好奇心を刺激するものだと思っています。別に子供向けにカラフルなキャラクターを出して説明するというようなベタな演出をすることが「分かりやすさ」だとは思っていません。できるだけシンプルに、丁寧に説明すれば分かることって、数多くあります。

学校の先生が言ってることと、家のお母さんが言ってることが矛盾しててもいいんじゃないかと思ってるんですね。その中で子供がどっちが正しいかを判断していくということができるわけで。

会田さんがYCAMで作ってこられたWSは、美術的な課題や科学的な課題とか知見が含まれていますが、軸は教育学というようなものになるのでしょうか?

教育学というと基本的には学校教育を指すと思うんですが、それが本筋だとしたら、自分はオルタナティブであろうと思っています。学校教育は学校教育なりの価値があることを僕らもわかっているんですね。毎日、顔を合わせる人たちとどうやって過ごしていくのか、仲の良くない人や気に入らない人と一緒のクラスで、どうやって融和していくのかという知恵は、学校でないと獲得できない。だから学校では出来ないことは何かと逆算して残ったものを探していくと、僕らのやってきたような活動になるんです。学校のカリキュラムに入っていないけど大事なことだったり、今日的なトピックだったり。

例えば、インターネットというものを学校で教えるときには、どうしても倫理の問題と結びつくのでネチケット(※ネット上でのエチケット)を教えざるを得ませんよね。でも、本当のインターネットの価値の一つは、自分が作ったものを、他の人が再利用していくことにあると思うんですね。学校の先生ではそれがどういうことかをなかなか考えたり教えたりする時間を取れない。別の例で言うと、学校の中では人のものを無断でコピーしちゃいけないって教えますよね。でもコピーそのものには罪はなくて、インターネット上のカルチャーでは誰でもコピーしていいよって一般に公開することで、他の人が補完して再配布するとか、いいものに高めてくれるとか、コピーできるからこその創造性も認められているんです。

そういうことをどんな学校のどんな先生でも教えられるようになるかというと、それは実際には難しい。そうなるとインターネットの価値というのを理解しないまま、とにかく危険であるとか、とにかくわからないことには触れてはいけないということを教えるしかなくなる。そう教えることは「先生にとって分かりやすい」から。そういったインターネットの教育しかなかったとしたら、深刻な状況だなと思います。学校教育の力ってすごく強いので、「危ないよ」って先生に言われたら、素直な人ほど危ないものだと認識したまま大人になりますから。

もちろん危険なこともあるけれども、価値もあるよと伝えることが社会全体としての教育環境のミッションでもあると思うんです。教育っていう言葉自体がとても強いので、今の日本だと教育技術そのものが専門知識のように言われたりして、「課題については専門家が考えて下さい、ちゃんとやって下さい」ということになっているんですが、僕は子供が育つ全ての環境を捉えたときに、今より少し偏在的に、しかも矛盾のあるまま教育が存在してもよいと思っています。

つまり、学校の先生が言っていることと、家のお母さんが言っていることが矛盾しててもいいんじゃないかと思ってるんですね。その中で子供がどっちが正しいかを判断していくということができるわけで。街角のたばこ屋のオヤジが言ってることもさらに違ってるというような(笑)。その中で、一体どれが正しいんだろうかと考えて、そこではじめて教育になるというか、環境から学び取るということができると思うんです。

地域、学校、社会が連携・協力して行う教育、皆が同じことしか言わない世の中というのは非常に息苦しいものでしかないと思います。例えば、学校ではカエルを殺しちゃいけないと言われる。家でも言われる。でもカエルを殺さないということが本当にいいことなのかってことですよね。命を殺めてみることから深く考えるきっかけがあるかもしれないですし。じゃあ、学校で皆が殺せばいいのかっていうと決してそうではないですよね。みんなが全体としてそれをやればいいっていう単純な話ではない。言ってることがそれぞれ違う、温度差がある中で相手の立場を尊重したり慮ったりする。子供自身は、自分で学ぶ力に長けていますから、何がいいかってことを選択していく中で、あるいは、矛盾が自分の中で生じて引き裂かれそうになる中で、どうやってバランスを取っていくのかというようなことを経験して、または時には大人の手助けを借りて、学んでいければよいと思います。それが将来、彼らが付き合っていく、立場や歴史や宗教などが入り乱れる流動的な社会といったものの中で、彼ら自身を生かす能力というものを形成していく礎になっていくと思うのです。

難しい選択をしてきた経験が、タフなネゴシエーションをするとか、創造的になっていくとか、建設的な議論を交わしていくとか、成果を求めていくとかに繋がるんじゃないかなと思うので、その能力については、少なくとも、皆が同じことを言っているような教育では鍛えていけないと思います。

だから、結論としては、僕らのような立場からすれば、学校は相変わらず「ネットは危険」だと言っていて欲しいし、一方で、僕らのようなメディアセンターでは学校とは違う価値をどんどん提供していく。その中で子供たちは自分たちで判断していけばいいと、そういうふうに思いますね。

取材後記/川口聡

会田さんは、WSデザイナーであるのは当然ながら、クリエーターとも言えるし、アーティストとも言えるし、あるいは社会学者でもあると私は思いました。その活動は、もはや職能がわからなくなるぐらいに横断的であり、どの活動においても傑出したクリエイティビティを発揮しておられるのですが、私は会田さんの発想を支えているのは、「観察」と「批評性」と「創造力」にあるのではないかと考えます。「観察」というのは、実感や体験と言い換えてもいいかもしれませんが、さまざまな場所での子供の様子や、WSに参加した子供だけではなく、自身の体験や実感の観察(記憶)。「批評性」というのは、今あるものをすべて問い直して自身の解を見つけ出すこと。そして、実感を批評的に分析して、価値を生み出していく「創造力」によって、独創的なアイデアをWSや展示(施設)の形に具現化してこられたのだと思います。「観察」が足りないと理念的な考えばかりにとらわれてしまうし、「批評性」が足りないと思いつきや自己満足との差が見えなくなり客観的な意義を失ってしまう。「創造力」がないとアイデアを具体化することができない。三つの要素すべてをあわせ持つことで、誰もやったことがない活動を生み出してこられたのだと思います。そして何より、あらゆる仕事にクオリティをもたらす上で、真摯さが欠かせないのだと思いました。

写真提供: 山口情報芸術センター[YCAM]
取材協力: Maemachi Art Center[Mac]
  舞台芸術制作者オープンネットワーク[ON-PAM]

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