制作ニュース

『地域のシテン』第4回 宮本武典×川村智美

14.04/23


制作手帖×ON-PAM地域協働委員会
リレーインタビュー『地域のシテン』第4回

ゲスト:宮本武典(東北芸術工科大学/キュレーター/「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ」プログラムディレクター/東北復興支援機構ディレクター)
聞き手:川村智美(ON-PAM地域協働委員会)

制作手帖とON-PAM地域協働委員会がコラボレーションして不定期でお贈りしているインタビューシリーズ『地域のシテン』。全国各地域で活動する舞台制作者が自ら聞き手となり、注目すべき「地域のキーパーソン」のシテン(視点、支点、始点)に迫ります。

今年開催される「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2014」(会期:9/20~10/19)のプログラムディレクターである宮本武典さんは、2005年に「美術館大学構想」を推進する東北芸術工科大学(山形県山形市)にキュレーターとして着任しました。その活動は学内にとどまらず、開湯1200年の歴史を誇る「肘折温泉郷」(山形県最上郡大蔵村)でのアートプロジェクト、山形出身の絵本作家・荒井良二さんを招いて山形市の中心でつくった「荒井良二の山形じゃあにぃ」、震災で山形市に避難している福島の方のための復興支援プロジェクトなど、作品を持って来て見せるプロジェクトから、まちと一緒に、住んでいる人と一緒につくるプロジェクトまで幅広く手がけています。今回は、宮城・仙台を拠点に活動している川村智美さんが聞き手となり、宮本さんが山形を舞台に展開してきたアートプロジェクトの裏側に迫ります。


展覧会を目的にするのではなく、アーティストがこのまちをどう見るのか、どう表現するのかを重視

――宮本さんが山形で働くことになったきっかけからお伺いしたいのですが、当初から山形で大学とまちが協働してアートプロジェクトをやっていこうという企画があったのでしょうか?

「舟越桂|自分の顔に語る 他人の顔に聴く」(2007年/東北芸術工科大学ギャラリー)

宮本:東北芸術工科大学は山形にある美術大学ですが、東京の武蔵野美大や多摩美大のように美術館を併設しているわけではなく、大学の敷地に箱根の森美術館のようなイメージでパブリックアートというかランドスケープ全体とアートをコラボレーションさせるという構想が立てられていたんですね。そこでプログラムを考えるキュレーターとして着任しました。予算が限られている中で何ができるかな、と考えた時に美術館はないけれど、大きなギャラリーや劇場はあったので、さまざまなアーティストを呼んで始めました。

――卒展のキュレーションもそうですね。

宮本:以前は市内にある山形美術館を借りて行っていましたが、つくった場所で見せることにしました。うちの大学は柵や塀がなく、周りとの境界線がない公園のようなところに校舎が点在しているのですが、地域の人が大学の中を見る機会はあまりないので、他の美術大学がやっている卒展とは違うイメージで、つまり地域における文化的事業の1つとしてやりました。

――そういう企画をきっかけとして地域に開いていって、地域の方にもっときていただこうという狙いもあったのでしょうか?

東北芸術工科大周辺の風景

宮本:卒展に関してはそうですね。また、新たに劇場(こども劇場)ができたり、ハード面で大きく変化したところがありました。ダンサーやアーティストを呼んでレジデンスをしてもらい、パフォーマンスをしてもらうだけでなく、学生と共同製作することを含めてプロジェクトにしたり、大学のさまざまな空間でさまざまなコンテンツをいれることで可能性を拡げていきました。ある時はオーディエンスが学生だったり、地域の人だったり、事業によって目的や対象を変えて、場所の創造性を拡げていきました。着任して2年くらいは年間7本位、ひとりでまわしていきました。

――広報も主に地域の人に向けて行ったのでしょうか。

宮本:美術業界でビックネームと言われるような人も年に2人くらい呼びましたが、おもしろいことに地域のメディアには全然取り上げられませんでしたね。たとえ地元の新聞社が取材にきたとしても、「○○さんは山形にどういうゆかりがあるのか?」ということを聞かれるんですよね。これが東京の美大生や美術好きな人なら、当たり前のように美術館やギャラリーが近くにあって、当たり前のよう現代のアーティスト達による今の社会だからこそ生まれる作品と出会える機会があるけれど、うちの大学では2000人くらいの学生がいますが、当時は現代アートについて知っている者はあまりいませんでした。知ってはいても生で体感できる機会が少ない。周辺にギャラリーもそんなにないので、それなら美術大学のギャラリーでコンテンポラリーアートを見せたいと思いました。当初は都市部で行われているものと同じものを持ってこようと試みましたが、それではやはり地域の人の関心を惹けなかった。自分事のように思ってもらえないんですね。どんなに良いコンテンツをやっていても、「面白い」という一定の評価はされても確かな手応えを感じるまでには至らなかった。もちろん学生への影響はあったと思います。レクチャーをやったり、共同で製作したり、何よりもまず学生のことを考えてプログラミングしていましたから。最初の2年くらいは都市部のアートと同じクオリティでつくることがミッションでした。でも、それをやっても地域への拡がりは少ないだろうと思っていたので、もっと地域の人に自分事に感じてもらえるように、うちの大学の民俗学の先生と一緒に「山形」をテーマにしたプロジェクトをはじめました。アーティストと一緒にまちのリサーチをするとか、そのリサーチ結果をもとに作品をつくるとか、展覧会を目的にするのではなく、アーティストがこのまちをどう見るのか、どう表現するのかを重視しました。最初は「アーティストが大学に来る」というだけでしたが、次第に肘折温泉の湯治場でやったり、街中の旅館を改造してやったり、アクションをまちに持って行くようになりました。

――肘折温泉でのアートプロジェクトはこれまで7回行われていますが、最初からこんなに続けていく予定だったのでしょうか?

肘折温泉郷ひじおりの灯

宮本:いえ、最初は民俗学者の赤坂憲雄さんから「肘折で何かやりたいんだけど」と呼ばれて、行ってみると若い旅館のご主人が集まっていました。彼らによると、「このままだと温泉も大変なので、何か新しいことを始めたい」と。それが5月で、「7月には何かやりたい」という要望を聞いて、あと2ヶ月しかなかったけれど、急きょ大学の建築の先生や日本画の先生に声をかけて、ワーキングチームを作りました。赤坂さんは専門の民俗学で「東北学」を確立していて、それとアートとのコラボレーションをやりたいとちょうど僕も思っていました。地域と大学による協働研究のようなかたちですね。ただ、大学がそこで何をやるのか、その時はまだ具体的に何もなかったですし、地域の人の中には不安を持つ人もいました。「アートなんてわけわからん」と。でも、うちの大学の良いところは学生の人柄がとても良いことなんですよ。まじめで純粋で、つくることがとにかく好き。住民が500人のまちからすれば学生が2000人もいる大学は十分に巨大なんですが、学生の8割は東北出身ですし、彼らと会ってもらえたら、きっと好きになってもらえると実感があったので、学外からアーティストを呼ぶのではなく、学生をまちにいれて、家ごとに灯籠をつくるという企画にしました。大学からすれば地域の中で行なう実践教育の場だし、地域からすればたとえ学生であっても表現をしているアーティストなので、観光客に向けてイベントを盛り上げるというよりも、教育事業を一緒にやっていこうという感覚でした。出来れば1、2年で終わるのではなく、続けていきたかったので、初めから予算も大きくしませんでした。たとえ次年度に補助金がつかなくても、持ち出しでもできるようにと。おかげさまで7年続き、今度は8回目です。

――継続して実施してきたことで、地域の方からも自主的に何かをやっていこうというように変わってきたそうですね。

「ひじおりの灯」製作風景

宮本:3回目から変わってきましたね。風穴をあけたのは学生でした。最初はこちらからお願いをして、地域の方に取材をさせてもらっていましたが、仲良くなって次の年も行くようになると、「お年寄りの多い町に若い人がやってくる」ということで地域の人がかわいがってくれるようになった。最初は長老の方としか話せなかったのが、その後ろに隠れていた学生たちと同世代の人の顔が次第に見えるようになって、同世代同士でつながったんですね。卒業した後も肘折に通う学生もいたり、青年団の準会員みたいになったりする人も現れて。そのうちに、若い子が頑張っている姿を見た長老が後ろに引いてくれて、赤坂さんも引いてくれた。「これは自分たちが思想的な、父親的な主導権を持つのではなく、若い人がやっていけばいい」と。期間中に音楽のイベントをやろうとか、勉強会をしようとか、だんだん肘折の若い人だけでなく、卒業した人たちも含めたみんなで企画会議をするようになりました。


「暮らしをアートという眼鏡で見る感覚」をお母さんたちが職場や家庭に持ち込んでくれれば

――バトンは次の世代に引き継がれたみたいですね。そういうプロセスは今年行われる山形ビエンナーレにもつながっているように思います。いろんな分野の方が入り交じっていて、山形以外の人もいて。ビエンナーレを市民と一緒につくるための「みちのおくつくるラボ」のような、一緒にリサーチや勉強をする場から始まっていて、地域を巻き込んだプロジェクトになっていますよね。

荒井良二荒井良二の山形じゃあにい

宮本:もともとビエンナーレは突然始まったわけではなく、山形出身の絵本作家の荒井良二さんが2010年に「荒井良二の山形じゃあにぃ」をやったときに、大学ではなく、市街の中心地にある、元小学校の校舎で展覧会をやったことがきっかけです。山形市では21年続いている隔年開催の「山形国際ドキュメンタリー映画祭」というイベントがあるので、その間の年に「じゃあにぃ」を入れて、映画祭と入れ替わりでやっていこうと立ち上げ当時から思っていました。山形市は中心街から郊外に人が流れている現状です。ほぼ車社会なので、無料で大きな駐車場がある郊外型モールに行くんですね。中心地は空き店舗が増えて、若い人向けの複合的なファッションビルにも空きが出てくる、若い人にとってもおもしろくない。さらに映画祭は2年に1回しかない。だったら、毎年文化的なイベントが催されるようにしようと。逆に商業的に発展している郊外では、このような文化はあまりつくれない。シネコンはあるけれど、それは文化を消費する場所で、自分たちの手でつくっていく場所にはなかなかならない。「じゃあにぃ」とは「JOURNEY=旅」という意味ですけれど、荒井さんと一緒に山形を旅するこのプロジェクトには1万5千人もの人に来ていただきました。これは山形市の人口(推計25万人)を考えるとすごいことなんです。最初はプロジェクト名に「荒井良二の~」とつけていましたが、いつかそれをはずして、自分アーティストをいれたフェスティバルにしたいと荒井さんは言っていました。震災後に、(東北芸術工科大学)学長の根岸(吉太郎=映画監督)が、「いろいろなものを失った東北なので、もう一度つくるというのを(芸術祭で)やりたい」と言っていて、その思いを2010年から始まっていた「山形じゃあにぃ」に載せていくという流れにつなげました。いずれにしても、山形出身の荒井良二さんというアーティスト・人が精神的な柱になってつくっているということがとても重要でした。

――「みちのおくつくるラボ」にはどのくらいの方が参加されているのですか?

みちのおくつくるラボ

宮本:今回のビエンナーレは、3回目の「じゃあにぃ」にあたるので、これまでと同じようにみんなで集まって荒井さんの妄想をわいわいやっていくところから市民の人を入れたいと思い、芸術祭をつくる課外ゼミとして「ラボ」をつくりました。まずは源泉となる川上からやりたい人を募りたかった。ラボには、「食」「本」「アート」という3クラスがあり、合計で60人が定員ですが、結局300人の応募がありました。山形だけでなく、気仙沼や仙台からも応募がありました。目立った広報活動はほとんどしませんでしたが、ネットを通じて興味を持った方が多かったようです。

――どんな方が参加されているのでしょうか?

宮本:このラボは女性たちが参加しやすいものにしたいと思っていました。だから、講師も6名中4名が女性ですし、すべて託児をつけてお母さんでも参加しやすい土曜日開催にしました。実は過去2回開催した「山形じゃあにぃ」には、たくさんの地域のお母さんたちがボランティアで参加してくださっていたんですね。そのお母さんたちがとてもすばらしかったんです。農業や子育てや情操教育、地域作り、食の安全や復興支援も一緒にやりました。今まで地方の街づくりはどちらかというと男たちが主役でした。地元の賢い高校を出て、地元の銀行や商工会や県庁、市役所の要職についている人や、旅館の跡取りだったりしている人たち中心で、まちづくりの会議や運動が動いていたように思います。でも実は高い教育を受けていて、やる気もあって、コミュニケーション能力が高く、創造性もあるお母さんたちがたくさんいる。また、うちの大学の教員は9割が男性ですが、学生は7割が女性です。これからの地域の担い手として育てていこうとしている若い人はほとんど女性なのに教えているのはおじさんばかりなんです。この矛盾をどうにかできないかとずっと考えていました。だから、そういうことも1つのメッセージとして感じてもらいたい。「暮らしをアートという眼鏡で見る感覚」をお母さんたちが職場や家庭に持ち込んでくれれば、男たち中心で行われている行政や地域づくりも少し変わっていくのではないかな、と。「費用対効果がどれくらいか」とか、「まちにお金が出せるのか」という話に何かとなってしまいがちですが、子育てや教育は時間がかかるもので、ある時期に投資をしたから必ず達成できるわけではない。お金をかけることも大事かもしれないが、向き合い続ける、常に愛情をかけ続ける方がずっと大事なんです。

――山形の暮らしを大事にしているというか、アートとは言いつつも地域の人たち一人ひとりの暮らしに密着している印象を受けますね。

山形ビエンナーレ

宮本:山形という地域は、東北の中でも「奧の院」というか、街道があって通り抜けるような場所じゃなくて、奧に堆積していったディープなものがいっぱいあるところなんです。それをアーティストが発見したり、新しい生活文化みたいなものが発見されてシェアされていくとおもしろいんじゃないかなと。

――もともとある文化を再認識するということですね。

宮本:観光資源になるかどうかはあと回しで、「まず、みつけていく」ということ。アーティストは感度が高いから見つけられるけれど、それよりもまず住んでいる人が見つけられるようにしたい。肘折では、若い人が行って、肘折の生活をテーマにリサーチをして灯籠をつくっていくのですが、毎年見ていくとまちの人たちの認識が変わっていくんですよね。自分たちの暮らしはこういうことだったのかなって。外からの視点が入ったことで、自分たちが気づいて、今度は自分たちがアクションを起こす側になっていく。だから、ビエンナーレの初回は、あくまでも地域の人が主役で、アーティストは創造的な視点を彼らに付与してくれる役割にしたいなと思います。今は、みんなが地域を見るまなざしを欲しがっていますよね。私たちは山形という狭いフィールドをモチーフにして、いろいろな実験を行っていますが、その結果、成果というのは他の地域でも応用できるんじゃないかなと思っています。すぐには難しいかもしれないけれど、ゆくゆくはそうなっていければ、続けていく意味も大きいんじゃないかなと。まず、自分たちの地域でやっていく。その次は、アーカイブをして事後にどう伝えていくかですね 。そこに参加した人がいかに良い学びをしたか、育ったか、芽生えたか、育っていけるための土壌がつくれているか、というのが最も評価されたいところです。山形って淡々と土を耕しているような地域性が美しいですよね。この芸術祭も淡々と根付かせて、シェアをしていく、人作りの作業なのかなと思います。


■宮本武典(みやもとたけのり)
キュレーター。1974年生まれ。奈良県出身。東北芸術工科大学准教授。同大東北復興支援機構ディレクター。1999年に武蔵野美術大学大学院を修了後、海外子女教育振興財団(バンコク)、渡仏(パリ国際芸術都市滞在研究)、原美術館アシスタントを経て、山形市の東北芸術工科大学に着任。地域に根ざしたアートプロジェクトや復興支援プロジェクトを数多く手がける。「山形ビエンナーレ2014」プログラムディレクター。

■川村智美(かわむらともみ)
東北芸術工科大学映像コース卒業。大学卒業後酒類小売業での広告デザイン、オンラインショップ運営を経て、2009年から2011年まで杜の都の演劇祭に事務局として携わる。仙台市、名取市の公共文化施設の事業アシスタント、記録のほかワークショップや公演を中心に広告デザインやイラストレーションを制作。


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