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第3回「海外進出」 ゲスト:吉井省也  (現・舞台芸術財団演劇人会議プロデューサー/在籍期間:1984年~2000年) 聞き手:山内祥子(パパ・タラフマラ制作/在籍期間:2008年~)

12.02/05

「パパ・タラフマラ」30年の軌跡を制作者視点で紐解くインタビュー・シリーズ「パパ・タラフマラの作り方」第3回。日本を代表するパフォーミングアーツ・カンパニーとして国際的にも高い評価を得てきた彼らは、いったいどのようにして海外進出への足がかりを掴んだのか?前回に引き続き、吉井省也さんに聞いた。

海外志向がブレたことは一度もない

吉井:「パパ・タラフマラ」の「パパ」って「PAPA」じゃなくて「PAPPA」なんだけど、これ、どうしてか聞いてる?

山内:いえ、聞いてないです。

吉井:「PAPA」っていうと、「パパ・ママ」の「パパ」の他にも「ローマ法王」の意味がある。「ローマ法王」+「タラフマラ(※メキシコの秘境を意味する)」って、外国人からすると宗教劇じゃないけど、意味深長 になっちゃうらしい。で、「横文字の時は“P”をもう一つ加えよう」ってなったんです。外国人の提案だったと思います。

山内:この時には、外国の方も関わっていらっしゃったんですか?

吉井:リサーチしました。やっぱり海外のことを考えてるんだよね、当時から。

山内:海外進出はいつぐらいから考えていたんですか?

吉井:タラフマラは結成時からだよね。僕が入った時に、その頃(1982年6月)の制作日誌が残っていて、「これ読んどけ」って言われてね。読んでみたら最初から海外公演のことが書いてあった。「第一回劇団ミーティング」というところにすでに「外国でやろう」って。さらには、「劇団員一人一人が言語を習得しよう」とも書いてあって、「この人は何語、この人は何語」って振り分けまでされてる。実行はされてないと思うんだけどね(笑)。今思うとおかしくて、外国に行くのに言葉が問題になってる。舞台上の言葉じゃなくて、交渉力としての言葉が問題だと。それは問題ではないです。自分たちでやる必要なくて、いい作品作って、いい通訳者を頼めばいいだけ。今ならそう思うんだけど、みんな若いからね、熱意は伝わるけど。

山内:吉井さんが入った時には、「ここに行くぞ」みたいな具体的なイメージが固まっていたんですか?

吉井:ハッキリはしていないけど、海外は視野に入っていました。「日本だけじゃなくて、海外でも活動しなくちゃいけない」って、それはね、完全にあった。そもそもタラフマラって、旗揚げして最初にやったことが「全員で第一回利賀フェスティバルに行くこと」っていう集団だからね。鈴木忠志さんはもちろん、そこには、ロバート・ウィルソン、メレディス・モンク、カントールだとか、寺山さんも、太田省吾さんも、錚々たるメンバーが揃っていたわけです。世界一流といわれる舞台を集団初期にキチンと観ているっていうことはかなり大きい。その後の当面の目標は利賀フェスで公演すること、になりました。もともと海外志向が明確にあったから利賀フェスに行ったのかもしれないし、その辺は分からないけど、とにかくそこがブレたことは一度もないと思いますね。

初の海外公演はイギリス


『パレード』(1991) Katsuji Sato

山内:実際に初めて海外公演を行なったのは、1991年の『パレード』ですね?

吉井:そうですね。結成から9年・・・まあまあじゃないでしょうか?今にして思えば、ね。

山内:これはどのようにして実現させたんでしょうか?

吉井:最初は確か「ダンス・アンブレラ」というフェスティバルだよね、ロンドンの。「ジャパン・フェスティバル」と併催で。マンチェスターとニュー・カッスルをツアーしたあと、最後にロンドンでの公演をしました。

山内:「ジャパン・フェスティバル」っていうのは、舞台芸術に限らず日本の文化を紹介するような催事ですか?

吉井:そうですね。とにかくいろんなジャンルの文化……伝統芸能も含めて音楽も舞踊も、映画もやるような大々的なフェスでした。88年に小池さんがフランス外務省からの招聘でパリに行った*1んだけど、その辺りから海外で広報したり準備はしていて、それで、イギリスでフェスティバルがあるって言うんで、「じゃ、やっちゃおう」ってことだった気がする。

山内:どなたかに紹介してもらったりとか?

吉井:それはいろいろありましたね。海外実績のあるカンパニーの制作者に会いに行ったりとかね。みなさんとても親切にアドバイスしてくれましたね。

山内:『パレード』は利賀で初演(89年)してからイギリスツアーまでの間に、名古屋・東京・神奈川を回っていますが、これは戦略的に行なったんですか?

吉井:ツアーできる作品にしたいと思っていましたから、ある程度計画的にやりましたね。『パレード』っていう作品は、タラフマラの歴史の中の一つのエポックだったと思いますね。再演もずいぶん長い間、『パレード』だけが突出して多かった。それに、これじゃないと(ツアーに)持っていけなかったからね。

山内:最初から(ツアーを)意識してたんですか?

吉井:どんどんリメイクをしていきました。衣裳もイギリスに行く時に全部変えたし、メインのオブジェもすごく重かったので、素材をグラスファイバーに作り変えた。かなり手間とお金を掛けたんだよ。

長期国際営業の実施とドイツ公演

山内:93年には『ブッシュ・オブ・ゴースツ』で2度目の海外ツアーとなるドイツ公演を実施してます。

吉井:たしか91年から芸術文化振興基金の助成制度がスタートして、さらに、92年からはセゾン文化財団が、年間助成、運営助成っていうのを始めたんです。これが年間1,200万円×3年間、トータル3,600万円を使途を指定しないで助成するっていう画期的な制度だった。その最初の助成対象者に選ばれた。

山内:1年間1,200万っていうのは…。

吉井:かなり大きかったですよ。その助成を使って、当時海外担当だった制作の松山聖子さんを半年ぐらい?いや、3ヶ月くらいだったかな。まあ、とにかく「世界中を回ってきなさい」って、宣伝に行かせた。

山内:はー!国際営業!

吉井:それが後からじわじわと活きてくるんだよね。92年にドイツの「ベルリン・フェスティバル」のディレクターが来日したんですよ。ちょうど松山さんが国際営業中で不在の時に(笑)。それで日本でドイツ公演の話をまとめたんだけど、それまでやってきた営業、広報宣伝の効果が確実に出てきたからなんだよね。その頃には、日本にカンパニーを探しに来るっていう外国の人たちから頻繁に連絡が来るようになっていたからね。

山内:海外に向けての営業って、もちろん「行く」っていうのはあると思うんですけど、当時はメールもないし、どんな風にしてやってたんですか?

吉井:ヨーロッパでいえば、主たるフェスティバルとか、タラフマラのような作品を好むであろう劇場の目星はついていて…劇場の性格はプログラム・ディレクターによって決まるからね。そういう劇場に松山さんが「会って下さい」って直接電話して、一件一件アポイント取ってたんですよ。

山内:なるほど。参考資料になるような雑誌とかあったんですか?

吉井:ないことはないです。ただ、そういうデータベースは世界中の情報が載っていて膨大すぎるんで、その中から、公演するのにふさわしいのはどこかっていう情報は独自で調べるわけ。例えば、「フォーサイス*2はどういうところでやっているのか?」とか、「ローザス*3はどうか?」とかね、全体的に目配りしていけば、分かります。フェスティバルディレクターなり、劇場のディレクターなりの趣味とか傾向がね。

山内:傾向と対策。

吉井:ええ、そういうのを把握して、営業しましたね。

山内:なるほど。漫然と待っていたわけではないんですね。

吉井:やみくもに営業してもしょうがないんですよね。先端的な表現とか、タラフマラ的なものを気に入ってくれるのはどこなのか、調査をしながら営業していったんです。劇場がもつステータスもだいじです。

山内:今でも当時の伝手が残っていて、いろいろなところからお声を掛けていただいたりするんですよね。この時期に築いた基盤が今でもカンパニーを支えているんだなあと実感します。

山内:ドイツ公演は2ヶ所(ベルリン/ケムニッツ)でやってますね。

吉井:この時は、『パレード』も持って行ってるんだよね。『ブッシュ~』をベルリンで、『パレード』をケムニッツでやった。

山内:2演目!!

吉井:…大変だったねえ(笑)。『ブッシュ~』を上演した劇場は「フォルクスビューネ」という旧東ベルリンの劇場で、ケムニッツもやっぱり、90年のドイツ統合まで「カール・マルクス・シュタット」っていう名前の旧東ドイツの町だった。だから、公演の前の年に小池さんと二人で劇場の下見に行ったんだけど、カフェの店員も、劇場のディレクターもほとんど英語ができない。で、旧東ドイツの学生にドイツ語と英語の通訳を頼んで、その時は「ドイツ語やっとかなきゃだめだなあ」なんて話をしながら帰国したんですよ。ところが、翌年に行ってみたら、みんな英語が話せるようになってるんだ。同じ人がだよ。あれには驚いたね。

山内:凄い…!

吉井:これはちょっと違うなって思ったね。ぼくら日本人は何年勉強してもろくにしゃべれないのに、あの人たちはいざやろうと思ったらすぐ出来ちゃうんだから。ソ連の影響があんなに色濃く残っていたのに、たった1年でものすごく変わってる。ちょうどそういう、激動の時代だったんですね。

山内:やっぱそういう、海外リサーチが重要なんですね。

吉井:その時、僕らはベルリンだけしか考えてなかったんだけれども、たしか、「ケムニッツでもやってくれないか」って要請を受けたんだね。ただ、ケムニッツの劇場は、『ブッシュ~』を上演出来るようなサイズじゃないわけ。それで、「じゃあ『パレード』も持って行きますか」って…。それで大変なんですよ荷物の量が。

山内:それはそうですよね。倍ですもんね。

吉井:たしか、40フィートコンテナで3本くらい必要だったと思いますよ。だから、あんまり効率的な公演じゃなかったよね。今思うとね。

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