制作ニュース
- 「今あるモノを花ひらかせよう」鹿児島県大隅半島に移住したダンサーJOUの芸術地域おこし活動レポート Vol.7
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13.08/26
こんにちは!
今年の夏は、全国何処も、猛暑だったようですね。鹿児島も、暑い夏でした。
7月19日から始まったおおすみ-かごしま芸術祭2013は、お蔭様で、最終日以外はお天気に恵まれ、ゲストの皆さんや地域の皆さんのお蔭様で、各地で素晴らしい時間を作ることができました。
来年も、夏休みに開催予定です。ボランティアスタッフ、事務局スタッフも募集していきますので、来年は是非、夏休みのアートな時間を、鹿児島で一緒に作りませんか?
無事に芸術祭残務処理、報告書作りに追われていますが、そんな中で、「アートに就職することはできるのか?」という話題が上がったので、今日は、私がこの世界に入った経緯、「コト始め~今」の個人的なことも含めたお話をしてみたいと思います。
通勤電車から東京の街を見て過ごした時代もあった。
企業に就職してから、自分探し
実は、20代前半、まだダンスを始める前は、普通にOLをしていました。
普通に短大を出て、普通に企業に就職をして、バブル全盛期で活気づく日本社会で、日々、一生懸命に働いていたOLでした。
最初の職場は、ホテルやゴルフ場など、レジャー施設のある本社事業部でした。取締役部長、課長、その下に女子社員として、自分。
今思うと、部長と課長、その部署が担当している地域の各事業所の支配人や総務担当者と本社をつなぐ、秘書的な役割だったのだと思います。
各事業所のリーダーである支配人や、その上の統括である本社の課長、部長、さらにその上にいる社長、と、日本の企業の構造の一端を垣間見ながら、
その現場で働けたことは、今の自分にとって、貴重な経験でした。腰掛け就職がまだまだ主流な時代でしたが、自分なりに「一生、働きたい」と思っていました。
ところが、就職して3年後、会社の編成が変わり、事業部が無くなってしまったのです。しかし、当然のことながら、会社は新体制の初日から、何の混乱もなく、
運営されています。毎日残業や出張で事業所と本社の間に立って仕事をしていた自分の役割とは、なんだったのだろう、、、と、この時は内心、ショックを受けました。
会社で働いている皆さんにとっては当たり前の常識かもしれませんが「企業で働くとは、歯車の1つになること」という事実を実感して、しばし、呆然としていました。
その時期に、自分探しも兼ねて、アフターファイブで様々な習い事をしました。
その1つが、ダンスでした。当時、日本で初めて開校した「ヘルス&アカデミー」というダンスの専門学校の夜間コースに1年間、通ってみました。
火曜と木曜、週2回。そのうちの1回は、現在新国立劇場におられる望月辰夫さんのお弟子さんの1人だったと記憶しています。ダンスのことは何も知らず、新聞広告に出ていたから、申し込んでみた、というような偶然のスタートでした。すぐ近くにあった桑沢デザイン学校の夜間コースにも通いました。
「歯車の1つじゃなく、自分の名前で自分にしかできない仕事をしたい」と思い始めたものの、やりたいこともなく、手に職もなく、何をして良いかわからなかった23才でした。防戦とした時期から少し回復した頃、千葉から東京に通う遠距離通勤電車の中で日々、「もし、今の自分が10年若かったら、何をしたかっただろう?」と考えて、リストを作りました。そのリストには、10以上のやりたいことが書かれました。ダンスは、その中の1つでした。
「とりあえず、ダンスが一番年齢制限がありそうだから、この辺からまずはやってみるか~」と、そんな安易なスタートでした。
アフターファイブの1年の夜間コースが終わった頃、自宅の近くに開業を予定していた関連会社の事業所の1つに移籍させてもらいました。
新しいホテルをゼロから作る、混沌とした現場から、体制が立ち上がっていく経過を経験できたこと、本社とはまた全然違う人間模様や采配が必要となる現場での体験など、OL第二期もまた、新しい社会を垣間見させてくれました。1人で何でもできる責任者は、開業の混沌とした現場では、即興力を発揮して活躍しますが、一度体制が整って来ると、なんでもできてしまうが故に、いつまで経っても部下が育ちません。同じ開業の現場でも、タイミングにより、適材適所というものがあるのだな~と、思いました。まだ20代前半の世間知らずの娘から見た世界だったので、見落としていることはきっと沢山あったのだとは思っています。
一家で経営するスタジオには、金の豚が… 。
ベルリン即興リハーサル OL時代には考えられない世界。
異文化の中で、自分探しは続く
結局、私の普通企業の就職時代は、5年余り続きました。
社会保険もボーナスも年金も、全てきちんと支払われ、経済的にはなんの不自由もなかった時代です。楽しみと言えば、買い物、海外旅行、国内旅行、美味しいものを食べに行ったり、雑誌に載っている様な話題のスポットへ出かけたり。飲み会や合コン、当時はまだ「ディスコ」と呼ばれていたクラブもありました。でも、何をやってもどうも今ひとつ物足りなかった。5年もすると、同期の女子社員も少しずつ、結婚していきます。その後の生活が素敵そうな相手を見つけて、なんとなく、結婚。そういう女子が周りに一杯いる時代でした。
実は、私もその1人で、さっさと早いうちに大手企業の会社員と出会い、アメリカ駐在員の奥さんとして、新婚早々、海外へ転勤することになりました。まだ25才の時でした。通算で5年、カリフォルニアとマレーシアでの駐在生活をしました。駐在員の奥さんは、夫の仕事の補佐のために呼ばれているので、現地では働けません。現地人の就職口を奪ってしまうことになるからです。「一生働きたい」と思っていた割には、あっさりと専業主婦に収まってしまいました。
生活環境を保証された海外暮らしとはいえ、働けないのは辛かったです。夫の稼ぎがあるにしても、自分で使うお金を自分で稼げないというのは、心理的に馴染めませんでした。しかし、他にやることがないのを幸いに、英語を習い、カレッジの聴講生として、沢山の種類のダンスクラスを、手当たり次第受講できた時期でもありました。
最初の駐在地アメリカは、人種のるつぼと呼ばれるカリフォルニア州だったので、人種が混在する自由な空気だったことも良かったのかもしれません。日本びいきのアメリカ人の先生にもかわいがってもらい、授業だけでなく、舞台の経験やクリスマス、サンクス・ギビングなど文化経験も、沢山させてもらいました。カリフォルニアには、日本の駐在員や留学生も多く、最初のうちは、コミュニティの無料サービスでもある「外国人のための英語クラス」を受講して、全くできない英語の勉強にも四苦八苦していました。
マレーシアに駐在先が変わり、クアラルンプールでダンスの活動をした時も、カリフォルニアとは異なる貴重な体験をさせてもらいました。カリフォルニア時代の最後に、無理をしすぎて膝を壊し、その治療のためにピラテスを始め、高じてインストラクターコースまで進んだので、マレーシアには、ピラテスのマシーンを持っていきました。新聞にそれが載って、マレーシア最大のパハン州の王妃さまからお声がかかり、駐在中、トレーナーを務めさせて頂いたりもしました。当時、ちょうど開校されたばかりの国立芸術アカデミーの講師陣と一緒に、ダンスの公演活動もしました。自分のコンテンポラリーダンス作品発表の他に、マレーシアの伝統舞踊や中国系マレー人の舞踏家による舞踏カンパニーの立ち上げに加わったり、マレーシアのショービジネスのダンスに駆り出されたり、世界遺産的な遺跡の石と踊ったり、様々な体験をしました。
また、駐在家族としても、マレーシアでは日本人スタッフが単身ボスと自分達だけでしたので、特に日本人駐在員家族とのおつき合いもなく、外国生活を満喫しました。駐在員を置く様な地域では必ず、駐在員コミュニティがあり、ほぼその人間関係の中で駐在生活を過ごすことも多いので、これは大変珍しい環境だったと思います。
マレーシアから日本に勤務が戻った時、一時期、ダンスの大学、ということで、日本女子体育大学にも在籍したことがあります。その時期に、ちょうど神奈川芸術文化財団の事業でASK(神奈川芸術工房)という舞踊、演劇、音楽、のメンバーを集めて、3年計画でカンパニーを立ち上げる、というようオーディションがありました。その第一期生として、最初の時期、参加していました。同期に、ニブロールの矢内原さん、ルーデンズの岩渕さんなどがいました。ピナバウシュから青山さん、ローザスから池田さん、フォーサイスからエリザベスなど、豪華な講師の皆さんに恵まれた時期でした。その後、夫をおいて単身で、アメリカの大学に留学にも行きました。
アメリカの大学留学は、オハイオ州という田舎の学校でしたので、カリフォルニアとは異なり、ごく一般的で保守的なアメリカ人の社会にも触れることになりました。
この時の人種体験のあれこれは、今でもうまく言葉にできませんが、感覚としてずっと残っています。
誰も雇ってくれない~ワクワク感
2000年から、人生を一度リセットして、東京でのダンス生活を始めました。「ダンスで食べていく」と、当時知り合ったダンス界の人に話すと皆さん「それを目指して何十年も頑張っているのだけど、まあ、無理だと思う」という反応でした。思っていれば、いつかは叶うかもしれないけど、思いもしなかったら、叶う可能性はゼロ。
「できるかできないか、それに向かって10年、続けてみよう」そんなスタートでした。日本のダンス社会で育っていないので、常識もわからないし、びっくりすることが沢山ありました。当時は逆に、私自身も非常識だとびっくりされた方も多かったことでしょう。日本のダンス界で育っていないので、わからないことを相談できる人もいません。
もし当時、誰か、雇ってくれたら、あるいは、誰か、仲間にいれてくれたら、昔、OLだった時の感覚で、嬉々としてグループの一員として、一生懸命働いたのかもしれません。しかし、新卒の若い女の子ならまだしも、すでに人生のキャリアだけは積んでいる、しかもダンス界では初心者な自分を雇ってくれる人は、誰もいませんでした。
自分自身がやりたいこと、興味があること、というのも、ダンスの作品に出るとか、ダンスの作品を作るとか、それだけでない、何か大風呂敷な意識がいつもあって、既成の枠に収まらないもどかしさもありました。
それでも、なんだかんだ、横浜ダンスコレクションに出たり、青山劇場の日韓ダンスに出たり、NYで人の作品に出たり、映画の振付けをさせてもらったり、偶然の出会いや人つながりで少しずつ、経験値が増えていきました。
ダンスでできる様々な可能性を、いろいろ試したかったので、マレーシア時代と同様、コマーシャルイベントから実験的アートイベントまで、誘われて、面白そうだったら、何でもやりました。
お金を払って参加するイベントから、無料のイベント、お金を頂けるイベント、経済的にもいろいろでした。「収入としては申し分ないけど、これに頼ってしまうと、つまらなくなりそう」というのは、ダンスに限らず、もしかしたら様々な仕事に共通して言えることかもしれません。お金がないプロジェクトは皆ワクワクするか、というと、これもまた違うのですが、本当にやりたいことのコト始めからお金がついてくるという状況は、個人的にあまり見たことがありません。
気がつけば時代は変わり、それなりにダンスで食べていける人達も出て来るようになりました。OL時代のような安定した贅沢はできませんが、もう充分に堪能したので、ああいうのはもういいかな、と正直、思っています。お金には困らないし、恵まれた環境だったけど、心があんまりワクワクしなかった。今だったら、お金があればあるなりにワクワクすることを作れるのかもしれませんが、お金で買えないワクワク感が、残りの人生、何をするにも第一優先かな、と思います。
もちろん、先立つものも必要なので、そのバランスが大事です。時代も自分も変わったので、あくまでも、私自身の話です。
今は、きちんとOLをしながら、アートだけでなく、主体的に様々なチャレンジをしている方も沢山いて、すごいなあと思います。
シェアしてみる
まだ食べれるか否か、ギリギリの頃、1つ、自分で決めたことがあります。
「もらったら、シェアする」
仕事にしろ、機会にしろ、仕事から得るお金にしろ。
私自身は、固定のカンパニーメンバーを持たないのですが、特別講師などの仕事を頂いたときは、なるべく同業者に声をかけて、アシスタントとして来て頂き、
現場体験をシェアしてきました。今では随分とそういう機会も増えてきましたが、まだまだ貴重な体験であった時代のお話です。
その場合、アシスタント料は予算にないので、それは、自分のギャラをシェアしました。ダンサーが社会的な立場を体験できるという貴重な体験を、シェアしていくことで、業界としての強度が増すと良いなあと、考えていました。自分の世話も満足にできるかできないかの時代に、「ダンスと社会の接点」そんなことばかり考えていました。
何事も1人や1カンパニーで独占しないで、毎回それぞれ機会や予算をシェアしてみたら、収入が少なくても、お互い、食べていくこともできるんじゃないか?
そんな経済論の実験でもありました。この経済論は、「メンバーや家族等、守らなければならないものが増えた時に、成立しなくなる」ということも改めて発見しました。
OL時代にいた企業社会と比べて、アート、特にダンスは、小さな個人事業の集まりです。最近は、優れた新時代のプロデューサーの皆さんも増えてきましたので、いろいろな意味で、ダンスも社会的になってきました。企業社会出身から見たときのギャップを埋めるために、様々な試みをしているうちに、いつの間にか、アートを取り巻く環境も変わってきました。これから、芸術が社会に果たす役割は、もっともっと、大きなものになっていくことでしょう。どこまで加速度がつくのか、どこまで広がれるかは、芸術に携わる人々の意識次第なのかもしれません。それが、何なのか、答えや方法は1人1人、違うでしょうが、確実に今やっていることの積み重ねが、未来を変えていきます。
「シェアしてみる」は、今でも続いている活動の1つです。21世紀型の主流になっていくのではないか、いくといいなあ、と思っています。
参加型アート「KURONOZ」
芸術祭ゲストの皆さんと、肝付町の癒しスポット、轟の滝で。
アートに就職はできるか?
就職、という概念を、「OLのようなサラリー保証の立場」、ということになると、「どこかのアート施設または、アート部門のある機関に就職する」ということになります。安定した雇用を求める以上、仕事はある程度パッケージ的な、単調なものになっていく可能性があります。とはいえ、アーティストと交渉したり、つき合ったりできる仕事は他にないので、それなりに楽しいと思います。実際、私自身も、当時はアートというよりは芸能人や有名人のディナーショーやトークショーなどのイベント寄りではありましたが、主催や受け入れの立場で関わることで、それなりに楽しい、貴重な経験をさせて頂きました。美術館やアート施設に「就職する」ことで、アート・マネージメントに就職することは可能かもしれません。
アートに限らず、予算のある分業制の中で、守られた状態で丁寧に仕事をこなしていけるが、ある一面しか仕事として関われない、というのが、「大きな組織に就職すること」というのが、私なりのOL時代の理解でした。
また、企業や行政の場合は、アート専門員のような立場なら別ですが、普通に就職してしまうと、部署替えなどありますから、生涯アートに携わる、ということをしたければ、個人で何か会社や法人を立ち上げるということになるかと思います。
最近では、NPO法人も増えてきましたし、一般社団法人という枠もできました。近年に限らず、有限会社や株式会社として、アートマネージメントをしている方々もいます。就職型に対して、起業型、と分類できるかもしれませんが、その場合は、アーティスト同様、自分の「好きなアート」だけでは食べていけないので、企業のイベントなどを収入の糧にしなければならないことも多いでしょう。発注を受ける場合、クライアントは、企業か行政、教育団体、となります。一般社会の「常識」が必要になってきます。一方で、アーティストの感性も理解し、評価できる審美眼も必要です。アーティストの個性や力量と企業や行政等の社会的な組織との間をつなぎ、企画書や報告書、実施計画書等、書類作業をしたり、現場の運営や広報宣伝等、対外的なことから創作現場のサポートまで、クリエイションに関わる様々な仕事全般、それがアートマネージメントの役割なのだとすると、そんな大変なことを、好きでなければこなせないだろうなあ、、、と思います。そういう意味では、表現の形態は違っても、アーティストと社会をつなぐという、社会的芸術の創造を行なっている大切な役割であり、アーティストでは決してできない分野の仕事でもあると思うのです。
アートの社会の言語と一般社会の言語と、両方を理解し、独創的につなげることができる才能を持った人材がもっと増えていけば、日本ももっと精神的芸術的に豊かな国となっていくことでしょう。企業や行政に入り込んでそのブリッジを作る部署で頑張るも良し、自分で起業するなり、起業した会社でいろいろな役割を体験しながらオールマイティに頑張るも良し。世界は、自分が想像した分だけ、無限に広がります。自分の限界は自分が作ってしまうものなのです。
ダムタイプダンサーの平井優子さん、チェロの森重靖宗さんの即興コラボレーションパフォーマンス。
自由時間には、川遊び付きのおおすみ-かごしま芸術祭2013でした。
結局は、自分次第
どの道を選ぶにしても、アート制作の仕事に課された課題は「社内の規則や行政の常識とアーティストの意向をどのように近づけ、新しい世界を作っていけるか?」なのかもしれません。
現場の気配りや思いやり、わからない常識や言葉を理解しまとめる力、新しい企画を作り、組織を動かす力、宣伝や広報の工夫、少し先を見通す力、即興力、、、優れた制作者は、良きリーダーであり、良きサポーターであり、良き仕掛人であり、おそらくどの分野にでも就職できる能力を持った人材が生き残るのではないかと思います。
そういう意味では、今活躍されている皆さんのお話を聞く機会があったら、それはぜひ聞いた方が良いと思いますし、お手伝いをしながら感じることも沢山あるでしょう。
その時に、就職するにしても、起業するにしても、仕事は人間関係。「この人とまた仕事したい」と自分が思えるかどうか、と同時に「こいつとまた仕事したい」と、感情的にも、能力的にも、思われたら、まず間違いなく、次に続きます。1つ1つの現場で力の出し惜しみをせずに、いろいろなことを考え、観察しながら、全力を尽くす。自分の心の声に耳を傾ける。そうすれば、心配しなくても自然と道はつながっていきます。というのが、私なりの実感です。
そして、できれば、自分の道を自分で作っていく人達が増えて欲しいです。自分で納得した自分の道を進んでいる人達は、皆さん、さわやかで輝いています。そんな人が増えたら楽しいですよね。
ひょんなことから一般社会を離脱し、ダンスの世界で生きていくことになった私ですが、進む道が行き当たりばったりでした。自分で道を切り開くと言うよりは、仕方なく的に受け身での選択がほとんどでしたが、「これとあれをつなぎたい」という欲求だったり、「こういうのがあったらいいのに」「こうしたらどうなるんだろう」自分の問題意識や疑問がその起点にいつもありました。枠を理解し、枠を外れること、流れのないところに道を作ること、向こう岸とこちら岸をつなげること、そんなことばかり。
10年20年と振り返ってみると、一見めちゃくちゃなようですが、一貫した流れがあることに気づかされ、自分でもびっくりしています。ダンスでできる新しい仕組みや関係。自分1人でできること、自分達でできること、そういう小さな範囲での独創的な試みを、沢山実行しました。「支援したいけど、規定の枠にはどれも当てはまらない」と言われたこともありました。それでもとりあえず、アイディアが浮ぶと、「実行する」。すると不思議なことに、必ず、本当に必要なことに関しては、誰かが助けてくれました。本当にラッキーだったと思います。
コト始め~その先の道は、未知
1.ビジョンを描く→リサーチとイメージ作り
2.どんな小さなことでも良いから、ビジョンに近づける世界のお手伝いをする(行動する、練習する、修行する)→自己投資
3.それを続ける→継続させるためのノウハウは、自分のオリジナルで作る。
自己投資の時代から、「食えるようになる」までのシフト期間が、一番辛いところです。実力と人間関係と、やる気と押しの強さ弱さ、何が幸いするかわかりませんが、自分の意識が変わり、覚悟ができたとき、自然とシフトチェンジできていくようです。
どの道に進むにしても「未知の世界を作る」という仕事が待っています。自分の作品を作るアーティストと同様、時には異なる世界のつなぎ役としてそれ以上に厳しい状況の中で道を作っていくこと、そのことそのものを楽しめるかどうか、生きがいに感じられるかどうか。アーティスト同様、アートマネージメントの皆さんも日々、試されるところかもしれません。「アートという同じ船の仲間」~どの立場にいたとしても、船を進めるためには必要な人材。船をどの程度の大きさで捉えるかは、自分次第です。
芸術祭ゲストやサポーターの皆さんと、ラジオ出演。
小学校WSなどでは、できるだけ同業者をアシスタントで誘い、社会的な場を共有するようにしてきた。
接点を見つける作業
夫が仲間になってからは、ダンスと音楽でできること、と世界も広がりました。とはいえ、夫婦といえども、違う人間。方向性も価値観も、類似・賛同する面があるから、一緒にやっていられる部分も大きいですが、基本的には、自分に100%迎合してくれることはありません。アーティスッティックな部分で見極める力と、社会的な部分で見極める力と、それぞれ得意不得意や好みは、誰にでもあります。その感覚や価値観のズレを理解しながら、接点を見つけていきながら、プロジェクトを立ち上げ、運営していく共同作業です。別に家族に限らず、アーティストとして自分だけの単独作品の場合は、自分の感性に従えばいいだけですが、人と関係しながら作品を作ったり、芸術祭等の社会性のあるイベントをしたりしていく上で、関わる人それぞれが納得できる何かを探して共有していかなければなりません。それをどのように見つけ、どのようにそうした人を増やしていくのか、今後の課題でもあります。
今年の芸術祭では、会場数もアーティスト数もイベント数も、夫婦でできる範囲をはるかに超えて、大変な仕事量でした。
これ以上続けるには、今の体制では難しいと考えていますし、これから先は、一緒に道なき道を流れにしていける仲間を作り、増やしていきたいなあ~と考えています。行き当たりばったり、沢山の人に助けられながら作って来た獣道を、そろそろ、ちゃんとした公道にシフトしていかなければ、、、と思い始めた今日この頃です。
芸術祭チラシ、ゲスト一覧。
裸の王様恐怖症
OL時代に、オーナ社長のモトに集まるイエスマンの体制や情報の操作を目撃してきたことも、現在の自分に大きな影響を与えています。どんな明晰な判断力を持つカリスマリーダーだったとしても、権力が集まることにより、知らぬ間にイエスマンが周りを囲み、届く情報も、イエスマン達がある程度操作して、都合の良い情報、あるいは、イエスマンが「気をきかせて編集した情報」に限定されてしまう日々が何年も続いたら、判断力も鈍ってきます。いわゆる「裸の王様」状態にそんなつもりではなかったのに、なってしまっている、、、そういう可能性はどこの世界にもある、ということが、いつも頭の片隅にあり、半ばトラウマになっているかのように、「そのような立場に祭り上げられないように」と、いつも無意識のうちに警戒して、自分自身を上に見せる努力よりも、誰とでも同じ目線で居続ける努力をしているようです。うっかりその立場に慣れてしまったら、裸の王様になってしまうに違いない、と、そんなよくわからない用心を日々、しています。そして、伝言ゲームではなく、「自分の目で見たこと、感じたこと、聞いたこと」を常にベースに本質を理解して行動するように心がけています。
もちろん、素晴らしいリーダーはどの世界にも沢山います。素晴らしいリーダーのモトには、素晴らしい部下が集まる、というのも常です。
なので、この用心は、自分自身のためだけに心していることです。
とはいえ、年齢やキャリアが上がれば、「先生」と呼ばれることも多くなります。現在教えている武蔵野美術大学では、「お母さんと同じ年」と言われるようになりました。「授業が終わったら先生じゃなくてJOUさんでお願いします」と今年は言っていました。こういう面に関しては、英語は呼びすて文化なので、気楽ですね。
1人1アート
結局、いくつになってもエンドレスで自分なりの克服すべき課題を目の前に見上げながら、自分の身体感覚や感性と正直な対話をし続けながら、正解のない答えを探し続ける作業が続きます。アートに就職できるのか、した方が良いのか、みたいな話は、どこかの時点で吹っ飛びましたね。
就職する、ということが、英語的に「commitする~責任をもつ、約束する」、ということであるとするならば、アートの世界に足を突っ込んで生き抜く、ということは、既成の道を利用するにしても自分で作るにしても、他での誰でもない自分の身体で感じ、自分の言葉で考え、自分で作り上げていく自分自身の人生という世界に「就職した」といえるのかもしれません。自分のボスが自分であるとき、そして、人のことも自分を尊重すると同じように尊重し合えるとき、本当に気持ちの良い環境が生まれます。そういう環境でクリエイションをしていけるといいなあと、日々、思っています。
すると、「自分の人生にコミットしました」となるわけです。それが「アート」と呼べるのか否か、それはアートの定義づけによっても変わって来るでしょう。
大隅半島でアートの位置づけを説明する時に「政治でも宗教でも商売でもない、創造の分野」という言葉を使ったりします。そう説明すると、納得してもらえる確立が上がるように感じています。政治でも宗教でも商売でもない、じゃあ、アートって何?という答えは、それぞれの立場の皆さんにも聞いてみたいところです。
プロなのかアマチュアなのか、その違いは何なのか、様々な線引きの仕方があるでしょうが、誰もが自分自身の人生を自分で作り始めた時、それは、広い意味でアートと呼べるのかもしれません。1人1人生~1人1アート。そう考えてみると世界もまた、違って見えてきます。
きもつきFMで ラジオ「世界の始まりと未来」
毎週土曜日19:30-19:45 / 再放送月曜日 11:15-11:30
FMきもつき 80.2MHZ
インターネットでも聞けます。
http://www.0033fm.net/nethousou_1.html
今年12月末まで、南日本新聞文化欄に連載が始まりました。
隔週金曜日。インターネットでは読めないのが、残念…。
http://373news.com/
芸術祭終了後に講師参加した、水天宮pit子どもワークショップ
https://www.facebook.com/keikobataiken
■JOU(じょう)■
23才で踊り始める。ダンスで人やモノや場をつなぐ作品作りをする。2008年ソウル国際振付祭にて外国人振付家特別賞を受賞。2013年、肝付町踊る地域おこし協力隊として鹿児島県に移住し、劇場舞台の枠を越え、地域おこしとつながったダンス活動を創作中。おおすみ夏の芸術祭(OAF)2012発起人。おおすみ踊る地域案内所所長。
JOU日記: http://odorujou.net
大隅文化生活http://osumiart.exblog.jp/