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第2回「カンパニーの成長と法人化~ゲスト:吉井省也(現・舞台芸術財団演劇人会議プロデューサー/在籍期間:1984年~2000年)聞き手:山内祥子(パパ・タラフマラ制作/在籍期間:2008年~)

12.01/05

「パパ・タラフマラ」30年の軌跡を制作者視点で紐解くインタビュー・シリーズ企画「パパ・タラフマラの作り方」第2回は、80年代中盤から90年代にかけて、“アングラ集団”から“アートカンパニー”へとカンパニーカラーを変遷させながら成長を遂げていった彼らの運営モデルと事業展開について掘り下げる。ゲストは、カンパニーの法人化に尽力した吉井省也さん。

演出家よりも責任の範囲が広いから制作に志願した

山内:吉井さんがパパ・タラフマラに参加された経緯を教えていただけますか?チラシを見る限りでは『カラーズ・ダンス』(1984年12月)くらいから名前が登場しているようですが。

吉井:大学入学と同時に入ったので84年の4月。作品としては『黒のソーラーゲーム』(1984年6月)からだけど、一番下っ端だったし、入った時にはすでにチラシが出来上がっていたから名前は出ていません。

山内:なるほど。

吉井:この年は4月(『1984日向で眠れ』)、6月と連続で公演をやっているのね。凄く忙しい時だったので、あんまり相手にされなかった(笑)。「やりたいならやれば?」みたいな。

山内:大学で勧誘みたいなことをしていたんですか?

吉井:まだやっていましたね。カンパニーとして片足だけ大学に置いておいていたんだよね。劇団員のほとんどはまだ学生だったけれども、小池さんはもう卒業していて、他の劇研サークルとは違ってすでに完全なプロ志向だった。けど、大学に片足突っ込んでおくと、いろいろ便利なわけだよね、稽古場所の確保とか。そういうことですね。

山内:入団した理由は?

吉井:はっきり憶えてないんですが、寺山(修司)さんが死んだ年じゃなかったっけ、たしか。違う?

山内:前年に亡くなってます。

吉井:前年か。なんかそんな感じだった、気持ち的に。

山内:じゃあ、寺山さんの作品も結構ご覧になってたんですか?

吉井:いやいや、そんなことないですね。僕は、遅れて来た青年ですよ。寺山さんには間に合っていない。寺山さんは、もちろん舞台の人だけれども、地方で舞台は観られないので、むしろ詩人や作家として有名だったから、田舎者でも名前はもちろん知っているわけですよ。亡くなったときも大きく報道されたし、だからちょっとこう、そういう風潮があった時だったんじゃないかと思いますよ。

山内:小池さんから、「入ってすぐに『制作やりたい』って吉井の方から言ってきたんだよ」みたいなことを聞いたことがあるんですけれども。

吉井:「舞台監督か制作がやりたい」って言って、珍しがられたよね(笑)。その時は、制作や舞台監督の仕事をちゃんと分かっているわけでも、自分の頭の中できちっと整理できていたわけではないんだけどね。ただ、19歳の若造が考えることだから適当だし、今から思えば後付け的なところもあるんだけど、演出家っていうのは客席に座って、お客さんの見える範囲には責任があるけど、バックステージやロビーのことまで責任があるか、あるいは見えるのかっていうと、なかなかそうもいかないし、またそういうことをスタッフも求めはしない。そうするとね、舞台監督の方が演出より責任の範囲がちょっと広いよなって思ったんです。舞台もバックステージも両方責任が出てくる。制作もそうでしょ?むしろ客席も含めた全てのことに責任がある。なんとなくそのイメージがあって、「どうせやるならできるだけ色んなものを見てやろう」っていうのがあったんです。それで、そういう言い方したんですよね、生意気に。

山内:そういう考えになったのはどうしてですか?

吉井:ハッキリ覚えてないけど、こっちは学生だし、自信もなかったから、どっぷり浸かるんじゃなくて、「いろいろ見て合わなかったらフェードアウトすればいいや」っていうようなことだったんじゃないかな。だから、あんまり熱心な奴じゃないですよね。「役者やりたい!」とか、「演出やらしてくれ!」っていう方が熱い。だからホントは僕みたいなのは面接で落ちていてもおかしくないんだけど、「なんか変な奴だから雑用やらせればいいや」みたいに思われたんじゃないですかね。

山内:吉井さんが入られた頃って、劇団員は何人ぐらいいらっしゃったんですか?

吉井:いろんな人が出入りしていたからなあ…。一橋と、武蔵美と、東経大、それから日芸っていう“カタマリ”はなんとなくあったけど、どこまでが劇団員で、どこからが劇団員じゃないかっていうのはサッパリ分からなかった。まあ、今もそうだけど、作品主体の集団だったからね。

「タラフマラ劇場」から「パパ・タラフマラ」へ

『海辺のピクニック』チラシ


『Monk』チラシ

山内:1987年に「タラフマラ劇場」から「パパ・タラフマラ」に名前が変わるじゃないですか。これはどういう経緯だったんですか?

吉井:「タラフマラ」ってアルトー*1でしょ。それに「劇場」ってつけると、どうしてもアンダーグラウンドなイメージになるんですよね。「タラフマラ」っていう語感からして暗い感じ……。いや、アルトーのタラフマラだって知ってる人は知ってるんですが、そういう人ってそもそも相当マニアックなわけで。結成時はそれでよかったかもしれないけど、当時のスタイルとはズレてきてたんですよね。それまではアンダーグラウンドなイメージだったんだけど、『海辺のピクニック』(1985年)がだいぶポップで、ジャズをいっぱい使った賑やかな作品で、このときのチラシのコピーと作品の中身がもうすでに合ってないわけです。それで、次の『モンク』(1986年)をやる時にまずロゴを変えてるんです。ちょっとこう、セゾンっぽく。で、次の年にさらに変えるんですね。

山内:「パパ」をつけたと。

吉井:うん、これ、たしか劇団員全員の投票で決めた。まず始めに「ガラッと変えちゃうとわけわかんなくなっちゃうから、タラフマラは残そう」と。それで全員で話し合って絞っていって、最後にこれ。

山内:民主主義で決まったんですか!え~凄い!

吉井:もちろん、最終的に小池さんが気に入らなければ採用されないけれどね。

山内:演目も話し合いながら決めていたんですか?それとも小池さんの一存で?

吉井:それは小池さんです。それがなかったらおかしなことになるんで。中身を民主的に決めるなんてことはないです。今でもそうかもしれないけど、まず最初に小池さんからバーっとなんか文章が配られる。

山内:そうですね。「こんなの書いてみました」って突然送られてくる。

吉井:そうそう。台本じゃないんですけど、「次こういうのはどうだ」っていうプロットのようなものがね。ただ、タイトルに関しては、みんなで考えたりしたことはありましたね。小池さんも意外とタイトルに関しては自信がないみたいで、「どう思う?」ってよく聞かれました。今でもそうかもしれない。

山内:今でもそうですね。「どんなタイトルだったら売れるか、俺分かんねーんだよ」って言ってます(笑)。

吉井:それね、作家には分からないと思うよ。だってタイトルっていうのは、作品を要約することにつながるからね。「要約なんて出来ない、この作品を一言でなんか言えない。」っていう気持ちは本来作者にはあるのかもしれない。

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