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「制作のスパイス」第3回:樋口貞幸さん(NPO法人「アートNPOリンク」常務理事 兼 事務局長)

15.06/23

直接会うことがなかなかできない異なる分野や職能のお仕事をされている方のお話は、自らに豊富な視野と客観的な視点をもたらしてくれると思っています。
制作者にとって直接、気づきやキャリアのヒントになるような話でなくても、料理の味付けがスパイスによって変わるように仕事の味付けが変わるような何かがあるかもしれません。そんな要素を、Next企画営業部の川口聡の視点で探ってみました。

樋口貞幸さん
(NPO法人「アートNPOリンク」常務理事 兼 事務局長)

http://arts-npo.org/index.html
(プロフィール)
インディペンデント・アート・アドミニストレーター
1976年生まれ。1999年、ARTS STAFF NETWORK設立。2003年、第1回全国アートNPOフォーラム in 神戸事務局を担当、2004年アートNPOリンク発足と同時に事務局長に就任。現在、NAMURA ART MEETING’04-’34事務局、NPO法人アートNPOリンク常務理事兼事務局長。東山アーティスツ・プレイスメント・サービス(HAPS)実行委員(2012〜現在)、舞台芸術制作者オープンネットワーク(ON-PAM)監事(2013〜現在)、NPO法人淡路島アートセンター監事(2013〜現在)、一般社団法人ダンスアンドエンヴァイロメント監事(2012〜現在)など。

樋口貞幸さんとは、2013年に知り合いました。その時に初めて「アートNPOリンク」という組織があることを知り、その後、制作者のネットワークについてや、アートの存在意義についてお会いするたびにお話を伺ってきました。今回あらためて樋口さんがどういう経緯で「アートNPOリンク」の事務局長になられたのかを伺いましたが学生時代に感じたことをきっかけに、自身の職能を規定せずに、人との関わりを広げてきた結果、現在のお仕事に結びついたキャリアのダイナミックさに驚きました。
また、NPO法人が単なる法人の種類ではなく、市民社会を形成する重要な理念に基づいていることは、舞台制作と社会との関係を考えていくことにも通じるのではないでしょうか。

リアルな反応を受けて

本日は、これから法人化を目指す舞台芸術団体にとって、どの法人形態を選ぶと最適であるのかなどを伺いたいのですが、その前に、樋口さんのキャリアからお話しして頂けますか?

はい。子供の頃から絵を描くことが好きだったので、アーティストになりたいなと思っていました。もしくはアニメでもマンガでも何でもいいから絵を描く仕事がしたいなと思っていたんです。それでアート系の大学を志すようになって、成安造形大学に入って日本画を専攻したんです。

僕が学生時代に、『芸術祭典・京』という総合的なアート・フェスティバルが京都市によって行われていて、学生部門というのがありました。京都・滋賀のアート系の大学、短大、教育大学9大学(当時)が連携した企画で、30人ぐらいの学生が参加していたと思います。京都の四条通の地下通路を会場に、展覧会を学生達が企画するというものでした。この学生部門に参加したときに、ふと思ったんです。京都・滋賀だけでアート系大学が9つもある。ということは、大学でアートを学んだ学生が、毎年、何千人卒業していくのだろうか?と。もちろん、デザイン会社に就職したり、アーティストになったり、ミュージシャンになったり、音楽関連の仕事に就いたりと、アートに関わる仕事をしている人も多いと思うのですが、アートを専門に学んだ人たちが世の中に見えてこない。関西だけみても、10年間で何万人も卒業しているはずなのに、その人たちはどこに行ったのだろう?と、すごく不思議に思いました。

四条の地下通路が展示会場に用意されていたにも関わらず、警察から「ここは通路だから立ち止まらせないようにしてほしい」と言われました。展覧会なので、立ち止まってみてもらいたいですよね。しかも展示会場に借りているのはデパートのショーウインドーなので、そもそも立ち止まって見てもらってナンボのもんです。何というか…社会の矛盾というのか一筋縄ではいかない「制度」というものをそのときに感じ始めました。
当時、四条の地下通路には路上生活者の方がいたんですが、僕らが作業をしていると興味深そうに話しかけてくれるんです。「誰もわかってへんけどな、俺らにはわかるで」「これは、こういうこと表してんねんやろ?」と、満面の笑みを浮かべながら得意顔で感じたままの感想を僕に返してくれた。誰もが足早に素通りしていくなかで、そういうリアルな反応があったことはすごく嬉しかったですね。
市の担当者の方が、この企画によって彼らを排除したいわけじゃないと言っていたのも覚えています。なるほど、僕ら学生の活動がそういうことに影響を及ぼしてしまうのかとハッとしましたし、税金を使っていたこともあって、僕らの展覧会は、いったい何のために、誰のためにあるのかと考えざるを得ませんでした。

アート系の大学の先生というのは、実績のあるアーティストばかりなので、大学にいるだけでアートの世界にいる気分に浸れるんです。でもアートが世の中の生活に根ざしていないことに違和感を感じていたときだったので、自分はこういうリアルな状況に身を置きたいんだと、そのとき直感したんです。

新しい出会い

NPO法人 ジャパン・コンテンポラリーダンス・ネットワーク(JCDN)を立ち上げようと佐東範一さんと水野立子さんがアメリカから帰ってきたのもその頃。当時まだJCDNは設立準備室で、グルービズムカンパニーという制作会社を経営しておられました。偶然の出会いから、制作のお手伝いをすることになりました。
お手伝いさせていただいた最初の仕事は、京都府民ホール・アルティで開催されたアルティ・ブヨウ・フェスティバル「山崎広太・rosy CO.」の上演でした。ボランティア・コーディネートを担当することになったんです。コンテンポラリーダンスという言葉はそのときに初めて聞きました。コンテンポラリーダンスって何だろう?と、とてもワクワクしたのを覚えています。

水野さんと初めてお会いしたのは、京都市中心部にある閉校した小学校。ここをアートセンター(のちの「京都芸術センター」)にする動きがあり、いろんな人が集まっていたんです。その頃は「京都芸術センター」という名前ではなく、「元明倫小学校・アートアクション京都」というアートセンター設立に向けたトライアルをやっていました。そういえば、まだ校長先生もいましたね。
そこで、現在「アトリエ劇研」(NPO法人 劇研)のプロデューサーの杉山準さん、「モノクロームサーカス」の坂本公成さん、森裕子さんたちとお会いしました。

当時、坂本さんと森さんが、「京都国際ダンスワークショップ・フェスティバルー京都の暑い夏」というアーティスト・イニシアティブによるダンス・ワークショップ・フェスティバルをはじめた頃で、彼らのお手伝いをしながら、現場でマネジメントの勉強をさせてもらいました。

ものすごく広範な活動範囲ですね。

美術もやったし、演劇もやったし、音楽もやったし、コンテンポラリーダンスもやった。アートのジャンルを超えていろんな現場に関わらせてもらいました。昨今のビエンナーレは、領域横断的なものがあたり前になってきましたが、当時は、それぞれのプロデューサーが独自に展開していたので、ボランティアたちがその間を行き来するような状況でした。

そうやっていろんなことに関わるようになって、ボランティアってネットワーク広げることとスキルを高めるために有効なんじゃないかと思ったんですね?

ええ。ただ、イベントやフェスティバルって単発のものなので、数か月たったら解散しますよね。ある時、それって不毛だなと思い始めて。イベントに従属するボランティアではなくて、ボランティアで独立したグループをつくって、自分たちが協力したいものを選んで協力していけないかと考えました。そして、97年の末ぐらいに「アートスタッフネットワーク」という名前のボランティアグループを大学横断で立ち上げることにしたんです。

「アートスタッフネットワーク」には、何人ぐらい所属していたのですか?

30人ぐらいかな。97年から活動をはじめて、99年の夏に総会みたいなものをやりました。ダンスボックスの大谷燠さんや、JCDNの佐東さん、水野さん、伊丹AI・HALLの志賀玲子さんたちに後押しされて立ち上げたんです。
そうこうしているうちに、大学を卒業するんですが、芸術系大学って世の中と少しずれていて、就職する人が「負け組」扱いされるんです(笑)。みんなアーティストになりたくて大学に行っているわけですから。

なるほど(笑)。

時代的にも就職氷河期で、就職先がなかったんです。僕にはそれがありがたかった。99年に、「アートコンプレックス1928」という新しい劇場が立ち上がるんですが、その立ち上げにも参加させてもらうことができました。同時に「芸術祭典・京」美術部門の事務局の手伝いもしていました。「ヴォイスギャラリー」に事務局があったので、画廊の仕事も経験させていただきました。
ちなみにヴォイスギャラリーが入っているビルは、「ダムタイプ・オフィス」と同じ建物で、狭い廊下を挟んだお向かいさんだったんです。それで、ダムタイプの人たちとも知り合うようになりましたし、関西レズビアン&ゲイ映画祭の人たちが隣の部屋で会議していたり、エイズ・ポスター・プロジェクトといったLGBTのアクティビズムやウーマンリブ運動にも触れる機会に恵まれました。

90年代京都といえば、クラブ・シーンが盛り上がっていました。日本で一番最初のドラァグクイーンのショー「ダイヤモンドナイト」というイベントがクラブメトロで行われていましたし、「Club Luv+(クラブラブ)」というエイズ・ベネフィット・パーティーもありました。20代前半はクラブ・イベントに入り浸っていましたね。ほかに、バザールカフェやCafé 448といったウイークエンドカフェにも出入りさせてもらって。そこでもいろんな経験をさせてもらいました。

90年代後半の京都はカオスでしたね。クラブシーンがあるかと思えば、「JCDN」が全国規模のネットワークを立ち上げたり、「京都の熱い夏」のようなアーティスト・イニシアティブの活動があったり、ウーマンリブやゲイリブなどさまざまなアクティビズムの運動がアートの近接領域にあったり、そこにアーティストがコミットしていて。とにもかくにも、そこでの議論についていくのに必死でした。

話を戻しますが、「アートスタッフネットワーク」の立ち上げにJCDNの佐東さんや水野さん、ダンスボックスの大谷さん、伊丹AI・HALLのプロデューサーだった志賀さんたちがバックアップしてくれたんですか?

そうなんです。ちゃんとお金にしなさいと言ってくれました。「東京には、ポスターハリス・カンパニーという団体がある。そこを参考にしなさい」と。僕ら若者は、どういうお店に若者が集まるかも知っていましたし、どこにチラシを置いたら有効か知っていました。それがリソースだと。恥ずかしながら、そんな遊びみたいなことがお金になるということの意味が全くわからなかったんです(笑)。だって好きなお店にいくついでにチラシを置くだけなんですよ。初めて仕事としてお金をいただいたのは、AI・HALLでの伊藤キムさんの「少年〜少女」の広報協力でした。

期せずしてベンチャー企業になってしまったんですね。

ベンチャーだと思ったことは一度もないですが…。僕らは自転車で回るだけなので支出がなくて(笑)。お金をもらって、ただただ戸惑いましたね。銀行口座も初めてつくりました。そんな感じで、本当にいろいろな人に応援してもらいました。

組織化してからは、トヨタ自動車株式会社が主催する、トヨタ・アートマネジメント講座に参加させていただいたりもしました。このご縁がつながって、「トヨタ・子どもとアーティストの出会い」の発足から関わらせていただくことになり、現在もアドバイザーとしてこの事業に協力させていただいています。トヨタ・アートマネジメント講座の影響も大きく、この時に出会った方々とも、いまも引き続き仕事をさせていただいているんですよ。文部科学省の「芸術表現を通じたコミュニケーション教育の推進」事業に審査委員として関わらせていただいたのも、この経験があったからなんです。

「アートNPOリンク」の誕生とフォーラムの開催へ

あるとき、志賀さんの紹介でアサヒビールの加藤種男さんという方にお会いすることになりました。当時、加藤さんは、企業メセナの発展に市民パートナーの必要性を掲げ、全国を行脚してパートナーを探しておられたんです。京都に「バカ」がいると訪ねて来られたんですよ(笑)。
「アサヒ・アートフェスティバル」( http://www.asahi-artfes.net )のスタートは2002年ですが、その前段階のリサーチだったのかなと思います。加藤さんは「アサヒビールはこれからNPOとパートナーを組んでメセナ事業をやっていきたい」とおっしゃって、ひょんなことから「アサヒビール音楽講座」の企画開発パートナーを引き受けることになりました。音楽講座は、港大尋さんというミュージシャンの企画で、2000年、2001年と2年間の事業でした。プロの演奏を聞くだけではなく、観客も一緒になって音楽を楽しむという内容で、参加した方も一緒になって楽器を鳴らすんです。面白かったですね。愛媛の「内子座」とか、アサヒビールの工場にも行かせてもらえました。

2002年から、アサヒビール・ロビーコンサートにも協力させていただきました。北海道では、札幌の「S-AIR」の柴田尚さんが、沖縄では「前島アートセンター」の宮城潤さんが、仙台では「ENVISI」の吉川由美さんが、愛知では森真理子さんがロビーコンサートを担当しておられました。クラブメトロで、伊藤キムさんのストリップショー「伊藤キム、メトロでやりにげ?!」もロビーコンサートとしてやったんですよ。さすがに、ロビーじゃないだろうと言われましたが(笑)、アサヒビール京都支社の方には、営業先でのイベントだったこともあり、たいへん喜ばれました。

ある時、加藤さんが「あんたたちの活動はNPO(Nonprofit Organizetion)って言うんだ」とおっしゃったんです。お話しを伺ってもNPOが何なのか全くわからなかったのですが、ともかく、NPOの全国フォーラムをやるから事務局をやんなさいと言われたんです。加藤さんは忘れておられるかと思いますが、僕が「フォーラムっておもしろいんですか?」って聞いたら、「おもしろくなくていいから、やれ」と言われたのを覚えています(笑)。

まだNPOがそんなになかった頃なんですか?

世間ではまだそれほど認知されていなかった頃だと思います。
そんなこんなで、「アートネットワーク・ジャパン」と一緒に「全国アートNPOフォーラム」の事務局やることになったんです。

すごい組み合わせですね。

ですよね(笑)。
ちなみに「全国アートNPOフォーラム」の発起人は、加藤種男さん、市村作知雄さん、そして僕の3人でした。JCDN設立準備室の事務所のファックスをお借りして、賛同人呼びかけをしていましたよ。今思い返してみても意味わかりませんよね(笑)

この頃はまだ樋口さん達は「アートスタッフネットワーク」という名前で動いていたんですか。

まだ「アートNPOリンク」は存在していません。ちなみに、僕は「アートNPOリンク」に雇用されていますが、個人事業主なので、いまでも屋号は「アートスタッフネットワーク」です。

「アートNPOリンク」の設立の背景について簡単にお聞かせください。

いつの頃からか放棄してしまった市民自治というものをもう一度取り戻そう、市民自らが公共を担っていこうという新しい思想潮流が95年の阪神淡路大震災をきっかけに大きなうねりとなりました。そして、多くの方の尽力により、98年に「特定非営利活動促進法(NPO法)」が施行されるに至ります。余談ですが、NPO法は、議員立法だということも大事なところです。議員というのは市民の投票によって選ばれた人たちです。要するに、現行の民主制の仕組みに則って選ばれた人がこの法律を作ったということです。とても民主的なプロセスを経てできたという点において、極めて重要な法律だと思っています。

「全国アートNPOフォーラム」を開催した2003年には、500ぐらいのアート系団体が、NPO法人化していました。アートを専門家のものに限定せず、公共文化政策というものも市民の手で担っていこうという気運がNPOの高まりとともに誕生します。しかし当時、アートに携わるNPOは、それぞれが孤立した状態で、近所にいる団体すらも知らないという状態でした。アートの社会的認知も低いし、NPOの社会的認知も低いし、社会を変革するという大きな理念はあれど、そもそも自分たちがサバイブしていくことすら難しい状況にあって、もはや個々の努力ではどうしようもない。お互いに連携していきましょうという機運が徐々に高まっていたところでフォーラムを開催することになったんです。

フォーラムを開催するにあたって、あちこちで説明会をひらきました。知り合いが知り合いを呼び、実行委員会が組織されるようになりました。

フォーラムを開催するにあたって、ほんとうにたくさんの企業の支援を受けているんです。株式会社資生堂さんやPanasonicさん、NECさんといった大企業から、TOA株式会社さんといったメーカーさんやまちの中小企業さんと、「民にできることは民で」という理念に即した幅広い支援をいただきましたし、トヨタ自動車さんとアサヒビールさんには10年を越える継続したご支援をいただいています。

フォーラムは、当初、実は「アートNPOセンター」をつくるという構想からはじまりました。でも、議論のなかで、センター構想は地方自治の理念に反すると一蹴されるんです。しかしながら、喧々諤々の議論の末、顔を合わせて日本の文化振興について議論する場は必要だということになり、センターではない、ゆるやかなネットワークを標榜するプラットフォーム型の組織の必要性がフォーラムで確認されました。

「アートNPOリンク」が設立されたのは、「第2回全国アートNPOフォーラムin札幌」で、NPO法人として設立したのは、「第3回全国アートNPOフォーラムin前橋」でした。
センターをつくるというのは、国に対して政策提言をしていく際に、個々のNPOが単独で声をあげても全く届かないという現状があったからなんです。セクターとしての規模をみせていかないかぎり文化政策は変らないし、制度は変らない、誰も聞く耳を持たないからです。
自分たちを「アートNPO」と呼称しようと決めたのも、フォーラムです。正しい英語では、Non-profit Arts Organizationあるいは、Non-profit Organization of Artsですよね。でも日本語にすると分からないので、アートNPOと呼ぼうと議論の中でまとまりました。

「アートNPOリンク」の運営はどのようになっているんですか?

「アートNPOリンク」というと、とても大きな組織みたいに聞こえますが、事務局はずっと1人でした。これは、ネットワーク型組織は、機能を極力小さくし、個々のアート団体の領域を犯してはならないという考え方に寄るものです。つまり、多様性の担保です。包括的なセンターではなく、地方自治の理念に則った、あくまで多様なネットワークだということの現れです。そのため、「アートNPOリンク」の事業は全て、全国のアートNPOとパートナーシップを組む方式を採用しています。
どれくらいがネットワーク組織の適正規模なのかは議論になりましたが、ここ数年は事務局3人体制に落ち着きました。
「全国アートNPOフォーラム」も同じで、地域パートナーがいて、そのパートナー団体が抱えている課題に寄り添いながらフォーラムを企画しています。

伺うと「アートNPOリンク」の理念や形態が、どういう文脈で生まれてきたのかよくわかりますね。

ただ、ここまでお話ししたことって、いま振り返って言える事だったりもするんです。2003年当時から自覚的だったわけではありません。いまになって、NPOというのは、民主的な意思決定の仕組みが組み込まれた組織形態だということは分かりますが、当時は全くわかっていませんでした(笑)。
もちろん当時の理事たちは、意識的に動いていたと思います。これまでのアートの専門家によるトップダウンの方式から、議論による意思決定を重視したボトムアップ型の文化政策を提唱していましたので。

とはいえ、基本的にアートNPOリンクの運営に関するイニシアティブを持つのって、事務局なんです。現場を動かすのは事務局だから、その時々で方向を決定していかないといけない。20名を越える理事による合議制で大きな方針を決定しますが、いつもすべての理事が深くコミットできるわけではないですし、理事たちが事務局業務を担うわけでもないので、最終的に事務局の熱意や関心が事業に色濃く反映されていく側面はあります。悩ましいですね。民主的であろうとするということは、合理的であることと相反するんだと思います。

「アートNPOリンク」は、どういう収益で運営しているんですか?

「アートNPOリンク」は事業収益が圧倒的に多いです。それは、「アサヒ・アートスクエア」の運営を行っているからです。それで事務局人件費や最低限運営に必要な経費がまかなえています。

アートNPOの利益に即した活動に徹しているのですか?

個々のアートNPOが利益を得ているのかというと、ほとんど利益を得ていないのが実情だと思います。個々の利益よりもNPOの人たちが活動しやすい状況をつくるために、どう提言していくのかということを考えています。NPOは基本的に公益的であることが求められるのですが、アートNPOリンクの提言は、共益でもあるし公益でもあるという両方を含みます。そもそもNPOの皆さんが掲げている使命(ミッション)は公益のものなので、個々のNPOが活動しやすくなるということは、共益だけれど、同時に公益に資するということになるんです。

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