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『地域のシテン』第1回 本多一夫×岡島哲也

13.11/28

制作手帖とON-PAM地域協働委員会がコラボレーションして不定期でお贈りするインタビューシリーズ『地域のシテン』。全国各地域で活動する舞台制作者が自ら聞き手となり、注目すべき「地域のキーパーソン」のシテン(視点、支点、始点)に迫ります。第1回は、東京を活動拠点とする舞台制作者・岡島哲也さんが、国内屈指の演劇タウン「下北沢」の中心人物である本多劇場グループの本多一夫さん・愼一郎さん親子を訪ねました。


「劇場を始めるぞ」って思った時にそれまでの商売は一切やめた

本多一夫さん
岡島哲也さん

岡島:まずお聞きしたいのですが、本多社長が演劇に携わることになったキッカケはどんなことだったのでしょうか?
本多一夫(以下、一夫)うーん、そうだね、最初は中学生時代かな。校内に演劇部はなかったんだけれども、卒業公演のようなものがあって、それに出してもらった。というか、自分で勝手にテキトウな脚本を書いて芝居をやったんですよね。それがキッカケで高校に入学してからは演劇部に入って、そこでずっと芝居をやっていた。その頃、北海道大学の演劇研究会を覗きに行ったりして、勉強させてもらってたんです。そうしたら、札幌に民間放送局(北海道放送)が出来て、その中に演劇研究所も出来るらしい、という話が聞こえてきたんですよね。昭和26年ぐらいだったかな。
岡島:なるほど。
一夫:放送局と言っても、まだラジオだけだったんだけど、「演劇が好きなら、高校を出たらここで勉強したらいいよ」って声を掛けてもらった。「東京から講師を呼んで、スタニスラフスキーの俳優修業をやりますから」って。それで、まだ高校へ行きながらだったけれど、時々遊びに行ってたんですよ。ラジオ番組にもちょっと出させてもらったりしてね。
岡島:ほう。
一夫:で、好きな道を進みたいと思って、昭和28年に高校を卒業して、正式にその演劇研究所に入った訳ですよ。そこでは毎日、朝10時から夕方5時まで、本格的に俳優修行に明け暮れました。スタニスラフスキーシステムのね。それから2年半ぐらい経った頃かな、新東宝という映画会社が「ニューフェイス募集」と謳って所属俳優を公募したんですね。ちょうどその頃、北海道放送のプロデューサーから、「本多ちゃんねぇ、多分この演劇研究所も近々閉鎖されると思うよ」って言われてたのね。「これからはテレビに移行していくと思う。でも、こっちでは番組を作らない。向こう(東京)から送られてきたフィルムを放送するだけだよ絶対。だから、演劇を続けたいなら東京に行かなきゃダメだよ」って。それで、研究所の同僚4人で応募したわけ。
岡島:応募数はどれぐらいだったんですか?
一夫:その時はまさに「ニューフェイスブーム」の頃だからね。北海道からは800人。全国では1万6千人って言われてたけれど。
岡島:へぇ~。
一夫:最終的には、女性10人、男性6人が合格したんだけど、そこにたまたま私も残れたんだよね。
岡島:1000倍!
一夫:ところが、大して売れもしないうちに、会社の方が潰れちゃったんだ、新東宝がね。その時すでに売れてたのは、三ツ矢歌子とか、原知佐子とか、まぁ、(菅原)文太は一級下だけれども、まぁ、そういう連中もいたんだけれども。それ以外の連中は売れ損なっちゃって。
岡島:そうなんですか。
一夫:で、どうにかして食べていかなきゃいけないっていうんで、下北沢で小さな飲み屋を始めたんですよ。
岡島:なぜ下北沢だったんですか?
一夫:ここに住んでたの。撮影所がある祖師谷大蔵にも、新宿にも、渋谷にも確か10円で行けた。ラーメン一杯が30円の頃だね。便利だったから、新東宝の役者仲間たちで一緒に住んでたんです。
岡島:(笑)。えーと、昭和・・・?
一夫:昭和30年、ぐらいかな。
岡島:それじゃ下北沢は、もともと本多さんにとって生活の場だったんですね。
一夫:そう。それで、よく通っていた小さな定食屋があったんだけど、新東宝が潰れた時にそこのおばちゃんから「アンタ、どうすんのこれから。北海道へ帰るの?」って聞かれたのね。「いや、でも何か仕事をしないと食べて行かれないね」なんて答えたら、「じゃあ、この店譲ろうか?」って言われた。「私ももう歳だから店を閉めようと思ってたのよ」って。それでそこを安く譲って貰った。
岡島:え、て、定食屋を!?
一夫:そう。でも、役者崩れだから料理なんて何も出来ないわけだ。だから、いろいろ考えて、ちょうどその頃、「バー」というのが流行りだしていて、下北沢にも2~3軒くらい出来てきたのね。それまでは、飲み屋って言うと、赤提灯とか焼き鳥屋ばかりだったんだけど。
岡島:はい。
一夫:それで面白そうだからバーをやってみようって。
岡島:へぇ、それじゃ、それが経営者としての第一歩ですね。
一夫:そうだね。まあ、貯金なんて全くなかったから、借金して30万円ぐらい準備してね・・・今の価値だと300万円ぐらいかなぁ。で、なんとか開店したんだけど、これが3ヶ月経っても全然お客さんが来ないわけ。従業員も2人雇っていたし、これはやっぱり駄目かな、失敗したかなあ、と諦めかけてたんだけど、4ヶ月ぐらいした頃から、どんどんお客さんが来るようになったの。カウンターバーで8席しかない小さな店だったんだけど、いつも満員で、「お客さん、満員ですから」って言っても、「いいのいいの」って後ろに立って飲んでる。満員バスみたいに(笑)。
岡島:へぇー!
一夫:あんな店、もう2度と作れないだろうな。あの黒川紀章も常連客だったんだよ。私と同い年だから25、6歳の頃かなあ。東大の大学院だかに通っていて、酒が飲めない癖に毎日来るの。ほとんど店の女の子に飲ませてたんだけど(笑)。
岡島:(笑)
一夫:で、結局たった1年で、30万円の借金は返済できてしまった。
岡島:凄いですね。
一夫:2年目には、ちょうど倍くらいの、15人ぐらい座れるカウンターがある大きな物件を近くに見つけたので、2店舗目をオープンさせて、それがまた運良くヒットしてね。
岡島:順調ですね。
一夫:結局、あっと言う間に下北沢で何十軒も店を作りました。

下北沢駅南口の風景
本多劇場

岡島:飲食店経営から劇場経営へと移行していったのはいつ頃ですか?
一夫:25歳で飲食店を始めたけど、40歳の時には全部やめて劇場(と稽古場)に専念してたね。38歳の時にこの土地(本多劇場)が手に入ったんですよね。本多劇場がオープン(1982年)する3年前には経営していたキャバレーを稽古場(旧本多スタジオ)に改装して俳優養成所を始めてた。で、彼らの発表会をする場が欲しいってことになったので、もともとアパートだった物件を本多劇場用の稽古場として改装していた「ザ・スズナリ」を使ってもらった。そうしたら、「こりゃ、稽古場にはもったいない。小劇場にも貸して欲しい」という声が多くてね。それで、正式に貸し小屋としてオープン(1981年)してみたら大好評でね。その頃小劇場と言ったら、自由劇場かジァンジァンぐらいしかなかったからね。
岡島:なるほど。劇場経営を想定しながら、養成所→稽古場→劇場、という流れでスタートさせていったわけですね。
一夫:劇場用の土地って、なかなか手に入らないのね。民間で劇場をやる場
合は、商業地域じゃないと許可が下りないから。
岡島:本多劇場はどういった経緯で?
一夫:ここは風呂屋の跡地だったんですよ。古い煙突が1本立っている空き地。地主のオヤジさんは戦争から引き上げてきて、この土地を親から譲られたんだけど経営する気が全くなかったみたいでね。で、そのオヤジさんが亡くなって、遺族の方が相続税を払えないからって売りに出したので、「よし、買っちゃえ!」って。それが38歳の時。
岡島:勝負師ですねぇ(笑)。
一夫:こういう土地はそう滅多に手に入らないもの、たとえ下北沢でもね。で、ちょうど等価交換による税制優遇制度が始まったこともあったので、その土地を提供して藤和不動産という会社に建物を建ててもらった。藤和不動産はマンション屋だから、マンションを建てて、うちは劇場と店舗と駐車場を貰うっていう。両者共同で建てたのがこのビルです。
岡島:なるほど。上層階(マンション)と下層階(劇場・店舗・駐車場)で事業体が分かれているんですね。
一夫:そう、上のマンションは不動産屋が経営してる。駅前の一等地だから、あっという間に売れちゃってたね。あっちはかなり儲かったんじゃないかな(笑)。
岡島:(笑)。その頃って、バブル期に向かっていく頃ですしね。
一夫:「劇場を始めるぞ」って思った時にそれまでの商売は一切やめちゃったからね。バブル知らないの(笑)。地下に潜って黙々と劇場造ってて、気が付いたらバブル期終わってたって感じかな(笑)。
岡島:(笑)。
一夫:まあ、それで良かったんだと思ってるけどね。変な投資とかに手を出していたら、今頃劇場なんて手元に残っていなかったかもしれない。

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